小塔院 正式名=元興寺小塔院 しょうとういん Syotoin
真言律宗元興寺小塔院

 元興寺 小塔院縁起 (がんごうじ しょうとういん)

創建

初期の名僧

平安朝の衰微

鎌倉期の小康

足利期の壊滅悲運

江戸期文芸復興の余波

明治以後の苦慮

伝説の一二

 

   創   建

 元正天皇の養老二年(七一八)、飛鳥の地にあった法興寺が奈良の新都、現在の元興寺の

地に移されたのでありましたが、その規模輪郭について

『寺域は左の四、五条の七坊に当り南北四丁、東西二丁にわたっていた。寺内には南に南大

門、門を入って右に東の大塔院、左に小塔院があり、中央にほ中門とその両翼から講堂にわ

たる廻廊があり、これにかこまれて金堂があった。講堂の北にほ鐘堂・食堂があり、左右に

相並ぶ僧房各四組があった。そしてこれ等伽藍をかこんで築地塀がめぐらされ、南の大門に

対して北に土門、また西側と東側にそれぞれ三、二門があった』(岩城隆利編元興寺編年史

料)とあり、

『さらにまた小塔院は五間四面の小塔堂と東屋・門屋でできていたらしく、小塔堂は後に吉

詳堂ともよばれ、その障子絵が有名であった』(同上編年史料)と伝えられています。

 しかし、これらの講堂は完成されたときの規模であったのですから、飛鳥の故地から移さ

れた養老二年をもって、直ちに小塔院創建年号とすることほ無理でありましょう。

『奈良朝の中期、聖武天皇が元興寺末寺を造営されたという伝えがあり、この頃から奈良朝

の後期にかけて、小塔院・五重大塔・食堂その他の造立があったと考えられている』(同上

編年史料)といわれているのですが、東大寺文書「小塔院師資相承記」によると、聖武天皇

のみ代に来朝した天竺のバラモン僧、菩提仙那(ぼだいせんな)が将来した仏舎利は、小塔

院に安置されていたことがわかりますので、右バラモン僧正を大導師として大仏開眼の営ま

れた天平(勝宝四年)頃には小塔院の存在していたことには疑いありません。

 また、『五間四面の小塔堂』という記録から考えられることは、後世の人達(江戸期)が

想像して措いた復元図にあるような八角二重の塔ではなくて、五間四面のお堂の中に納まっ

た小塔、即ち今日、国宝に指定されている模型様の小塔(極楽坊収蔵)にバラモン僧正将来

の仏舎利を納めて、この堂に安置してあったが故に、この堂を小塔院と名づけたと考えるの

が妥当のようであります。

 

 

  初期の名僧

 元興寺の教学と学僧の代表は神叡(しんえい)の流を汲む勝虞(しょうぐ)・護命(ごみ

ょう)らの法相学僧でありましたが中でも護命は法相・倶舎に精しく「大乗法相研神章」等

の多類の著書を残した碩学であったと同時に、南都諸寺に法恩をしき、僧綱の中心人物とな

って南都仏教の護持につとめ、最澄の大乗戒壇の設置に反対したことほ日本仏教史上有名な

話です。『彼は承和元年(八三四)に小塔院に八十五才をもって寂しており、時に天人の楽

がきこえたといい、後世にも種々の伝説を残している』(同上編年史料)のでありますが奈

良朝の後期から平安の初期にかけての名僧であり、単に南都仏教に於てのみならず、日本仏

教に於ても代表的名僧でありました。

 日本真言宗の開祖弘法大師が護命僧正八十才の寿を賀した詩文が、その文集『性霊(しょ

うりょう)集』に載っておりますがその中に

 『元興寺の大徳僧正、年八十に登(すす)んで、智ほ十二(十二部経)に明かなり、無着

(むちゃく)世親(せしん)の論、奥きを探(さぐ)り、旨(むね)を諳(そら)んず。…

…二美(福と智)兼修し、六度(六パラミツ)具(つぶさ)に行ず。謂(いい)つべし仏家

の棟梁、法門の良将なる者なり』 等と最高級の讃辞をつらねて、ついで美しい詩文で

 『卓たる彼の人宝(じんぽう)、謂うべし国の珍』人間的国宝であることを宣言して結ん

であります。以て当時の徳望を忍ぶことが出来ます。

 

  平安朝の衰微

 南都七大寺の一寺として盛蓮を保ち、仏教界に大きな足跡を残してきた元興寺も十世紀ご

ろから急激に衰運をたどりました。

 平安朝は藤原一門の天下です。その氏寺である興福寺は栄えるが蘇我氏の寺である元興寺

が衰えるのは政治の歴史と共なる必然の勢と云えましょう。

 長元八年(一〇三五)の記録によると小塔堂は瓦の三分の一をはじめ、壁・礼堂板敷・戸

脛金・ス扉等はなくなり、その他は何れも朽損破損しており、桧皮葺の建物三宇ほすでに早

くもなくなり、桧皮の失なわれた門臣が僅かにあるさまである(同上編年史料)これは勿論、

小塔堂にかぎらず他の堂舎もことごとく荒廃していたことと思われます。

 

   鎌倉期の小康(しょうこう)

 長元より二百数十年を経て、小塔院に僅かながら復興のきざしが見えたのは、西大寺興正

菩薩(叡尊)

とその弟子忍性菩薩(良観)等、西大寺一門の廃寺復興の尽力でありました。それを裏づけ

るものは野田氏所蔵の小塔院本尊とおぼしき西大寺様式の釈迦尊像の銘であります(重文)。

 今日、境内に通っている石造の宝筐(ほうきょう)印塔は鎌倉期に属しますから、恐らく

はこの興正、忍性の両菩薩の努力の跡でありましょう。

 また今日小塔院が西大寺末として真言律宗に属しているのもその因縁によるものと思われ

ます。

 

 

   足利期の壊滅悲運

 鎌倉期にいさゝかながら復興を見た小塔院も遂に徹底的な打撃をうける事件が起きました。

足利時代の宝徳三年(一四五一)にいたり、土民による一揆がありました。土民蜂起して伽

藍炎上がありました。

小塔院より出火し、金堂以下主要堂宇及び智光(ちこう)マンダラ等の至宝も焼亡しました

が、このとき幸にも極楽坊、五重の塔など少数の堂宇だけが火災を免れました。

 小塔院は堂舎悉く焼失の上、寺域は土民によって侵され、徳政と称したと記録されていま

す。

かくてその大半を失って僅かに西の傾斜した地形の部分だけが名残をとどめる結果となりま

した。

 

   江戸期文芸復興の余波

 

 荒廃して二百五十年、狐狸の住家となっていたこの地に、綱吉将軍の元禄十年(一六九七)

愛染堂の小堂が出来ました。(この小堂は昭和二十三年腐朽して風なきに崩壊)

ついで虚空蔵堂が宝永四年(一七〇七) に二間四面の小堂として出来上りました。

 これが現存の柱傾き軒朽ちて、屋根瓦のくずれ落ちた現在の小塔院本堂であります。

 御本尊は唐招提寺の良舜房が寄進して奉納せられたもので、仏師は成慶と読めるようで慶長

年間の仏像であります。

 昔日の如く寺禄なく、勿論、律院であるために檀家もなく、法灯の護持に苦心惨憤の史実が

記録されています。

 文化(一八〇四)以後は男僧の住持するものなく尼僧によって明治初年まで住持されて来ま

した。

 

   明治以後の苦慮

 

維新以後は男僧が再び住しましたが、寺門の維持経営には苦心のあとがほっきりと見え、或る

時は庚申様を勧請して大いに繁昌した時期もあり、或る時は大峯修験の先達として山嶽仏教の

宣伝にこれつとめた者もあって、歴史とともに流転し、大平洋戦争終戦後ほ現住職の父がこれ

に変りました。

 昭和四十年より史跡元興寺小塔院跡として指定をうけましたので、地域の名残りのみほ永く

形跡を後代に伝え得ることゝ大いに期待するとともに、当院としては、天平・天長の往昔を省

みて、以て伝統精神とし、南都仏教の中枢たるの衿持(ほこり)を常に失ってはならないと誡

ている次第であります。

 

 

   伝説の一・二

 

一、今日、御本尊に虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)がまつられていることにちなみ思い出

されるのは、護命僧正の伝記によると、月の半分は元興寺小塔院にあって仏書に親しみ、月の

半分は吉野の山に寵って虚空蔵求聞持(ぐもんじ)の法を修して苦修練行(くしゅうれんぎょう)

これ勉められたと伝えていますから、当時すでに密教の一部分(雑部密教という)が日本に伝来

していたひとつの証拠にもなります。

 

一、往昔、奈良の名物に護命味噌、またの名をほろみそ(ほうろみそ)という名物のお味噌があ

りました。

そのいわれは、僧正の学徳を慕って学僧が雲集したので、小塔院の厨房(台所)は惣菜に苦心し

ていた、そこで僧正が発明されたのが胡桃(くるみ)等の入った、栄養価の充分あって、しかも

御精進料理となるお味噌であった。

お粥にお味噌をなめて、学生(がくしょう)と共に法論をたたかわせた。ゆかしい物語ではあり

ませんか。

 その味噌が遂に奈良の名物となって法論味噌(ほろみそ)と名づけられました。

法論(ほうろん)即ちほろであります。護命味噌とも云っていたと伝えています

 

一、小塔院は東門は西新屋町(にししんや)に、西門は鳴川町(なるかわ)に通じていますが、西

門のそばを流れる川はもと「鳴かずの川」(不レ鳴川)であったが、いつしか不(ず)の字が取れ

て鴨川となり、町名も鳴川町となったと伝えられています。

 そのいわれは、この小川に蛙が多く住んで鳴き声が非常にやかましかった。その鳴き声が僧正の

学問の邪魔になったので、鳴かないように封じこめられた。それ以後蛙は神妙に鳴かなくなり、僧

正の勉学に協力をした。この因縁で不レ鳴川(なかずのかわ)であったのが、いつしか鳴川に変っ

たという。

 

一、護命僧正の御遷化の日には、小塔院の上空には紫雲たなびいて、天人の楽が鳴りひびいたと諸

伝はつたえていますが、今日でも春ともなれば必ず鶯がおとずれて、そのかみの天楽を思わせるの

も一つの不思議でありましょう。

                                  以 上

 

630-8334

  奈良市西新屋町四五

  真言律宗 小塔院(史跡・元興寺小塔院跡)

先住 河村恵雲(かわむらえうん)筆

現住 河村俊英(かわむらしゅんえい)加筆

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