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護命

護命(ごみょう、天平勝宝2年(750年)- 承和元年9月11日(834年10月20日))は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。

護命僧正
 
  • 護命(ごみょう、天平勝宝2年(750年)- 承和元年9月11日(834年10月20日))は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。俗性は秦氏。小塔院僧正とも呼ばれる。美濃国各務郡の出身。奈良市西新屋町45番地、史跡「元興寺小塔院」に墓が残っている。

    はじめ美濃国分寺の道興に師事し、その後奈良元興寺の万耀・勝悟について法相をまなび、また吉野で山岳修行を行った。806年(大同元年)に律師に任じられた。比叡山の最澄による天台戒壇独立運動には僧綱の上首として反対し、823年(弘仁14年)に戒壇の開設が勅許されると山田寺に隠棲したが、淳和天皇に召し出され、その後も中央政界で活躍した。827年(天長4年)には僧正に任じられている。元興寺の法相宗が興福寺の法相宗に上回る原動力となった。
  • 生年: 天平勝宝2 (750) 没年: 承和1.9.11 (834.10.16)
    平安初期の僧。美濃国各務郡(岐阜県各務原市周辺)の生まれ。俗姓秦氏。15歳で吉野山(比蘇山寺)で修行し,17歳で得度,元興寺勝虞に師事,月の前半山林修行,後半は寺で法相教学研鑽するという生活を続けた。少僧都,大僧都と進み,弘仁10(819)年,最澄比叡山での大乗戒壇設立運動に対して南都仏教を代表し反対した。大乗戒壇の設立が許可されると離任を望んだが許されず,山田寺に居した。のちに僧正。元興寺の法相教学の中心人物で,門下に延祥,泰演らがおり南都仏教を代表する学僧である。山林修行を積極的に行ったことでも著名。<参考文献>家永三郎監修日本仏教史』1巻
    (鷺森浩幸)

   護命の『大乗法相研神章
 
  • 大乗法相研神章/大乘法相研神章(だいじょうほっそうけんじんしょう)護命(ごみょう)撰(大正大蔵経 No.2309)
     『大乗法相研神章』は護命80歳の作品
  •  空海のように言葉の難しさはなく最澄のように一本気ではなく親鸞日蓮のような狭暑苦しさはないと皆から評価される。冷静に日本仏教を理解しようとするなら最初に読むべきご本ともいわれる。
     淳和(じゅんな)天皇の勅命によって,各宗がそれぞれ自己の宗義(しゅうぎ)を要約して朝廷に提出したものが,「天長六本宗書(てんちょうろくほんしゅうしょ)」とまとめてよばれているものであるが,本書もその一つで,法相宗(ほっそうしゅう)の宗義を述べたものである。
    著者の護命は,平安初期における最も有名な仏教学者であり,多くの著述をしたようであるが,現存するものは本書のみである。
    これは,単に「六本宗書(ろくほんしゅうしょ)」の一つである,ということで重要であるばかりでなく,日本における唯識思想(ゆいしきしそう)を知る上においてもきわめて大切な資料であるといえる。

 内容抜粋
 
  • それ以るに、三界九地は有識の宅なり、五趣四生は無明の報なり、その故に、六賊恒に随いて避けがたく、三毒常に起こりて以って侵しがたし。所以に智人はこれを厭いて出離の辰を期し賢者はこれを患いて遊入のことを願う。すでにこれ所悲の境なり、誰か思量せざらん。また即ち所度の生なり、何ぞ尋覧せざらんや。
  • ゆえに能く印度の大士は各々高論を著し振旦の名僧は共に章疏を製す。これ皆転じて聖を作るの勝躅、悪を退けて善を進むるの梯橙なり。ついに日本をして天下篤く三宝を信じ大小を修学せしむ。
  • 諸宗を招隆し偏りなく党なく、国を護り人を守る。今聖朝普く諸寺に勅して宗要を上らしむ。印度の仏や菩薩達、中国の名僧たちもそれぞれに立派な教えを説かれた。その気持ちはひとつである。ひとびとがみんな聖、立派な人になり、勧善懲悪のみちを進むための梯子なのである。
  • 護命、幸いに昌運に遇い久しく道家を経て、年歯八十、形神衰耄せり。しかりといえども、親しく勅旨を承けて悦撫虚懐、謹んで顕世界問答5巻を上り、名づけて大乗法相研神章と云う。ただ冀(こいねが)わくは九重の主上、朝廷の賢臣、覧はすに足りずといえども、以って口実となしたまえ、しからば即ち資人弘法の誉れ、代えて断絶無く、由法降人の美、永えに相続あるべし・・自分護命は運よく長生きしいろいろ勉強もして80歳、心身も衰えたといえども、勅旨をいただき、大乗法相研神章という顕世界問答5巻を奉る
実語教作者は弘法大師とされていますが確証はなく実は護命かも?平仮名のいろはを創ったのは護命。
■山高きが故に貴からず、樹あるを以て貴しとなす。人肥えたるが故に貴からず、智あるを以て貴しとなすといふ文句を冒頭として、児童のために教訓の事を説きたる「実語教」は、 「庭訓往来」、「女今川」などの類と共に、明治維新前には、寺小屋にて児童のための教科書として盛に用ひられたものであつた。
■その作者は護命僧正であると伝へられて居る。

護命僧正は南都元興寺に居つた高僧で、嵯峨天皇の弘仁七年に僧都となり、仁明天皇の承和光年に年八十五にして亡くなられた。平仮名のいろははこの護命僧正が作られたと」言はれて居るが、 「実語教」がこの護命僧正の作であるかどうかは明瞭でない。或は護命僧正よりもつと後の僧侶の手になつたものかも知れぬ。
■しかしながら、「実語教」の書が古くから世に行はれて居つたといふことは 長門本の「平家物語」の中に『山法師の習へる山高故不貴とはかやうのことを申すベき』とあるにても知られる。又同じく「平家物語」の中に源三位頼政が山門(叡山)と南都とをかたらひたるに山門が 忽ち心変りせしを南都の法師が憤慨して「座主経」一巻、「実語教」一巻を作りてこれを根本中堂に送つた。
■さうしてその「実語教」といふのは『おりべはいつたんの宝、身滅すれば則ち共に破る、 恥はこれ万代のきず、命終れども共に滅することなし、欲はこれ一生の恥、恥なきをもて愚人とす、四大日日に衰へ、三たふ夜々くらし、云云』とありて、戯れに「実語教」の文句に傲ひて叡山の僧侶を 罵倒したものである。
■稍々後になりて鎌倉時代の末期無住法師の「雑談集」にも『箱根山中葦河宿にて或旅人実語教を誦して曰ふ、山高きが故に不貴、飯大なるを以て為貴云云、家主とりあへず誦して曰ふ、 人肥えたるが故に不貴、以賃多為貴と、互に入興して飯大にして賃多くしたりけるといへり云云』との笑談が載せてある。これ等の事例によりて見るも、「実語教」の一事は鎌倉時代の末期には既に広く世 に行はれて居つたものと思はれる

■実語といふ文字は「法華経」を始として、「涅槃経」、「金剛経」、「大般若経」などにも出て居るもので、それが仏教の経典に本づきたることは疑を容れぬことである。従つて「実語教」が僧侶の手になりたること も事実に近いものとすべきである。しかしながら、当時行はれたる儒教の所説をも採用して、初学のものに適切の教訓を説きたるもので、しかもその書が近代に至るまで、庶民教育の根本をなして居つたことを考ふれば、 我邦の精紳文化の発展の跡を顧みて、この「実語教」の如きはまことに尊重すべきものであると言はねばならぬ。よりて私はここに新にその意義を解釈して、これを現代の人人に提供し、少なくとも現に家庭の主人たる 母親若しくは将来に於て母親たるべき人人に対して、この書を一読あらむことを要求する。
その他 ■二宮金次郎が勉強したと云われる教材の中に「実語教」が含まれて居ます。
1103.護命の『大乗法相研神章』

= 護命の『大乗法相研神章』(天長7年、830年) = を少し見ておきます・・大東出版社『国訳一切経 諸宗部15』の結城令聞さんの読み下し文(昭和12年)によります。 = 古来「天長六大宗書」の随一 = といわれるもので・・十分読み込んではいませんが・・やはり空海の十住心論等をも超える、日本仏教(理解)の空前絶後の頂点と評価します。 護命は・・最澄の比叡山戒壇設立には最後まで反対、空海とは生涯仲良しだった節ありますが・・ = 『大乗法相研神章』は護命80歳の作品:透明でクールで一切

2010/6/1(火) 午前 11:22 [ raccoon21jpのブログ ]

空海の生涯における護命

護命の『大乗法相研神章』

温故知・新静岡県立図書館蔵実語教

護命供養塔

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