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        興正菩薩叡尊と茶の話

                                  河村 恵雲

 

  当宝山寺の方丈様は奈良西大寺の真言律宗という宗派の管

 長様でもあり、一宗渇仰の的となっていられる方で、私共も

 また、このことをこよなき誇りに為しているのであります。

 御先代の駒岡僧正もまた、おなじく本宗の管長をお勤めなさ

 いましたことは皆様御存知のことであります。何故に生駒山

 宝山寺が真言律宗に属するのであるか、はっきりした事情を

 私は知りませんが、想像しまするに恐らくは、この宝山寺の

 御開山である湛海和尚が御在世の当時の真言僧に思いを馳せ

 まするに、 その本分に目醒めて、一代を指導せんとする気

 慨に燃えた方々は殆んどが、軌を一にしたように真言律の幢

 の下に集っていたように思う。江戸の浄厳和尚もそうであっ

 たし、河内の高貴寺の慈雲尊者もそうであったことを思えば

 その時代の真言の高僧方の一つの時流であったのではなかろ

 うか、それで当御開山も真言律の源流に深い尊敬をはらわれ

 遥かに鎌倉時代の西大寺の興正菩薩叡尊和上の宗風に共感と

 憧れがあって、想をそれにはせられたのではなかろうかと思

 います。これが宝山寺が西大寺流を酌む所以であろうか。間

 違っていたらあとで訂正します。

  西大寺叡尊和上の真言律というのは、どんな主張、どんな

 特色があるのかというと、真言宗という宗派は教義や理論と

 しては仏教中でも最高のものである。近頃えらい宣伝されて

 一般に知られて来た日連宗の一派が、日連聖人の宗派が一番

 立派で、他の宗派は皆邪教のように云いふらすものだから、

 何も知らない一般人は、或はそうかも知れぬと、漠然と考え

 たりするのかも知れないが、物事は一つの立場や主義や、イ

 デオロギーで判断してはいけない、あらゆる角度、あらゆる

 立場から研究して、虚心平気で、ありのまゝに観察せねばな

 らぬ。そうすると、真言宗というものは実に立派な教義を備

 えていることを、私が云ったところで、誰れも信用なされま

 いから申します。今は亡き印度哲学の大御所である故高楠順

 次郎博士から承わったことがある。博士は真言宗は仏教中最

 高の教義であるとおっしやったことがあります。だから私も

 自分の信ずる宗派を最高至尊と崇めておりますが、鎌倉時代

 の叡尊和上もそう信じて居られたのでありましょう。

  ところが中年にいたつて、大変に煩悶なされた、というの

 は、自分の実際生活や、他の真言僧の現実をよくよく反省し

 てみると、必ずしも皆が皆、教義の如くに最高の人格を完成

 して、仏陀と云うにふさわしいかどうかは疑問であった。そ

 れは何故であろうかと尋ねたずねて、遂に仏様が定め置かれ

 た生活の規律である、戒律を守り実践しなければならぬのに

 その実践の生活が粗雑なものだから、その当時の高僧大徳が

 加持祈祷には、霊験は神に等しい偉力があるにもかゝわらず

 全人格としては何か缺けているものがある。それは名利のた

 めに高潔な気品を失って、ひいては大円満の仏格を成就する

 ことが出来ぬではなかろうかと気がついたのでありました。

  こゝに於いて、遠く天平の昔、唐招提寺にもたらされて鑑

 真和尚以来、絶えて久しい律瞳を、道友である招捉寺の覚盛

 律師等の同志と供に、南都に於て高くかゝげて、我が国に

 於ける戒律中興の祖と称せられる程有名になられたのであり

 ます。

  宗派は弘法大師の流れを汲む真言宗ではあるが、特に戒律

 を厳重に守りぬかれたので、真言宗も伝えるし、律宗も共に

 伝えるから真言律宗と云う名を付けたのが西大寺の法流であ

 ります。

  その叡尊和上が、当時中国から輸入されていたお茶の樹の

 栽培を奨励され、茶を喫むことを一般にすゝめられたのです

 が、その史実が伝承されて、それが西大寺の毎年の行事とし

 て遣っているのが大茶盛という、人々の意表をつくような大

 きなお茶腕でいたゞく茶会であります。

  お茶の道の元祖と云えば紹鷗とか利久とか云うお方にきま

 っているのですが、その時から三百年も遡った昔に、すでに

 お茶を喫む集りが在ったということは、お茶や茶の道の歴史の

 上から云っても刮目し、特筆すべき出来事ではありますまいか。

  ところでこの大茶盛を始められた興正菩薩叡尊という御方は

 無慾廉潔で全く名聞利養の俗塵の外に超然としておいでになっ

 た方で、同時代の高僧栂尾の明恵上人、曹洞宗の御開山道元禅

 師と共に、日本高僧伝中でも模範的な人でありました。

 「関東往還記」という日記風の記録がありますが、この中に

 叡尊と北条時頼との関係のことが書いてあって、御二人の人

 格風貌が芳賀と浮び出て居り、面目が躍如としておりますの

 で、この記録を通して往年の高風を偲んでみたいと思いま

 す。

  弘長元年(一二六一)の十月頃、鎌倉幕府の要人三番引付

 頭の北条実時という人が使を西大寺によこしました。引付頭

 は随分と高い役です。将軍の次が執権で、その次が連署、そ

 の次が引付頭ですから、なかなかの要人です。また実時とい

 う方は金沢文庫をこしらえられた、幕府の内でも学問の有っ

 た文化人でありました。その方が仏教のバイブルに相当する

 一切経を一部寄進するから、どうぞ関東へ来て教化してくれ

 とのことでした。叡尊和上は自分はこちらで用事が多く、と

 ても近畿を離れることはむつかしいからお断りしたいと申さ

 れた。

  すると又使が来て、一切経の寄進は関東下向の有無に関係

 なくさせて貰うと云って書面がとゞいた。やがて一切経が到

 着しました。これは宋版の一切経で、支那からの舶来品で当

 時でも仲々に得難いものでした。これが幸にもほとんど全部

 今でも西大寺に保存されて来て、現に聚宝館にその一部は展

 観されております。

  やがて十日程してから、自分の弟子でもあり法友でもある

 定舜という僧で、律書伝来のため入宋して帰って来た者が、

 実時の言付けを持って来て申されるに、実時のお話には(以

 下原文のまゝ)「ツラツら近来の躰を観るに、仏法世に弘まり僧

 侶国に満つというと雖も、唯だ執論の鋒を争い、出離の道を

 隔て、名利の門を趨うて、解脱の要を失う。在俗の輩も亦最

 悪増長して、正法の崇ぶべきを餅えず。之に依って治国の故

 も年を追うて廃れ、仏法陵夷し、国土凋弊す。承る如くん

 ば、西大寺長老は独り正法を行い、通俗化導に預かる。故に

 近畿の地方は、因果の道己に顕れ、貴賎恩益を蒙り、解脱の

 縁漸く萌すという。仇って最明寺禅門時頼も同心になって奉

 話する所である。若し下向あるに於ては、法の為にも国の為

 にも莫大の利益たるべし云々」というのでありました。

  その翌弘長二年になって、実時から又使が参り、北条時頼

 が戎を受けたいから是非どうか御出下さいと懇々と頼んで来

 ました。和上の側に居る弟子達も勧めて、これ程まで頼まれ

 るなら関東に下向した方がよかろう。仏法のためにもなるこ

 とだからと云います。叡尊和上は「そんな遠距離を乗物で放

 しては駕寵はきゆうくつであって自分の命も測り難いが、道

 のためなら死んでも致し方ないとことだから行くことにしよ

 う」と云われます。

  弘長二年(一二六二)二月四日に西大寺を出発して約三週

 間かゝって鎌倉に着いておりますが、その日記の中にお茶を

 大衆に振舞われたことが書いてあります。今日の大茶盛会の

 濫觴は寺の言い伝えでは、文応元年(一二六〇)だと云われ

 ており、正月初めの御修法と申す恒例の法会が終った日に鎮

 守八幡の社頭で献茶して、その余服を皆でいたゞいたのに始

 まるとのことですが、文応元年と云えば、お茶の道の元祖千

 利休居士の歿年から三百年も昔のことだから、そんな古く有

 るはずはなかろう、西大寺が宣伝のためにつくった話ではな

 かろうかとお疑いの方もあろうかとも思いますが「関東往還

 記」を見ると間違はなかろうと信ぜられます。

  即ちその旅行の様子が伺われ、宿々に到着するごとに其の

 地方の人々が日本一の高僧が将軍様のおまねきで鎌倉へ下ら

 れる途中だというので、大勢押しかけて来る、お説教をして

 くれ或は戒をお経け下さいと、どこへ宿っても大変な群衆で

 あった。叡尊和上はその衆に対しては、旅の疲れもわすれて

 結縁のためにと要求に応じられましたが、そのあとで出家の

 身でお土産もないからお茶を接待しょうというので、お茶を

 たてたのか、煮たのか知りませんが、一同に差し上げ自分

 達も互に飲んで旅の疲れを癒やされたことでありましよう。

 「茶を儲く」という記事が九回も出て来ます。即ち近江国守

 山の宿に於てとか、美濃国柏原の宿に於てとか、尾張国は州

 跨河の西岸に於て、駿河国の清見関に於て儲茶す。とちゃん

 と書いてあります。これだけはっきりと茶を呑まれたこと、

 皆に施し振舞われたことが明らかな以上、その二年前の正月

 鎮守社頭の大茶盛は信じても不自然ではありますまい。

  二十四日鎌倉に着いた。幕府の館の西門に近いところに一

 軒の在家があって、そこに泊っておった。早速北条実時が見

 えて、この度の下向を厚く謝しいろいろと話をされて、自分

 は在家のまゝで在俗の弟子に加えて欲しいと願った。さて申

 すには鎌倉に御逗留の間、かような民家では御不使であろう

 から寺を探して置いた、それは称名寺という寺で年来不断念

 仏の衆が置いてあるが、その人達を一時出して貴僧のために

 提供するといつた。

  叡尊和上の答えて云われるには、それほどうも怪しからぬ

 ことである。自分は出家以来まださような立沢な寺には住ん

 だことがない。称名寺には沢山の寺領がある由だが、さよう

 な所に自分は住もうとは思わないし、且つ又自分が入るため

 に年来居った不断念仏の衆を追い出すことは慮外のことであ

 る。さような所には入らないと断ってしまった。実時ははじ

 めて其の風格に接し、かえつて深く感服された。そこで尚よ

 く皆と相談して置きましようと云って帰り、翌日家来をして

 無住の寺、無縁の寺を探させた。遂に一寺新清涼寺というの

 があって無住無縁であった。直ちに叡尊和上に相談して、

 そんなら宜しかろうということになって住むことになりまし

 た。

  ある日北条時頼から使が来て、御目に掛りたいけれども自

 分から 行くことができません。その訳は執権の身として始

 終危険にさらされていると考えてよい、いつも付け狙ってい

 る者が居て濫りに外出できない。さりとて儲尊和上を自分の

 館にお招きするのも勿体ない、甚だ恐れ多いがどうしたもの

 でありましょうかと相談されました。 叡尊和上の御返事は、

 自分は前から一人の請いで個人的な私情の入りやすい求めに

 は応じていないけれども、そちら様の御事情を伺ってみると

 尤も至極であるから、巳むを得ません、この度だけは私から

 出向きましょうと答えて使を還された。そして初めて時頼の

 館に赴いて、夜のふけるまで道を語り合われました。

  またこんなこともありました。時頼が将軍宗尊親王の御前

 で、この度鎌倉に来て貰った叡尊という方は、普通の僧とは

 趣きが違っていて甚だ奇特な方で、徳の高い人のように思う

 と、頻りに賞讃されました。それを聴かれた将軍が、自分も

 どうか結縁のために戎を受けたいと申されました。ところが

 時頼の申上げるには、それは難しう御座いましょう、あの方

 は普通の方でないから、深い信心からの決意でなくて只結縁

 のためというだけでは戒を授けることを許しますまいと語ら

 れた。この話が後日叡尊和上の耳入ったとき云われるのに、

 如何にもその通りであります。未だ曽て信心のない者に授戒

 をしたことはない。如何に将軍の厳命と雖もこればかりは何

 とも致し方がないと云われて、遂に将軍宗尊親王の御希望を

 知りつゝも、それを容れようとはなさらなかったのでありま

 す。

 それから又これによく似た話がもう一つありました。それは

 連署という執権の次にある地位の北条政村が申し出られて、

 受戒がしたいから一度御出下さるまいかと云って来られた時

 にもまた叡尊和上の云われるには、そういうことを申す人は

 これまで随分あったのであるが、その都度曽てその願に応じ

 たことはありません。若しそれを破って政村という人が特に

 高い権勢のある地位の人だというので、自分から出掛けて行

 ったとなっては、特別の扱をしたことになり、「人に依って

 親疎あるに似たり」で、仏法の信心の大原理、平等の大意に

 楯をつくことになりますから、私は差別はしない、その願は

 叶え難いことですときっぱり断られました。そこで巳むを得

 ず政村自身が出向かれて戒を受けられた。

  叡尊和上とは実にこうした仏法のために私情はなげすてゝ

 権勢にも屈せず、富にもおもねらず、毅然たる風格の持主で

 ありました。「叡尊は身命も怯まず、名聞も求めず、唯だた

 ゞ興法利生を願う」と「感身学正記」に三ケ所も書いて告白

 されましたが、この言葉は実にこの高僧の真面目を語るもの

 であります。

  五月の末から病気になってニケ月程病床に休まれた。時頼

 は屢々使をよこして見舞われた、段々と暑くなるから二、三

 ケ月帰るのを延ばして、鎌倉に逗留する様に頼まれました。

 それからも一つ願があるから聴き入れて欲しい、というのは

 西大寺という寺は無縁の寺になっているようで、寺領が無く

 貪乏寺のように聞いているので、寺領を差上げたいと思って

 いると申された。叡尊和上の答は、御志は有難いけれども御

 断りする、寺が無縁になっていて檀家のないのを御心配にな

 っているが、それは初めからの無線で、その無縁こそよけれ

 と思っている。だから御寄進は御断りすると云われました。

 するとその翌日になって又北条実時が使を出しての口上に、

 時頼の御考は御覧の通り関東の人々が上下挙って皆篤くあな

 たに帰依している、その帰依の志を表わしたいために其の印

 として、僅かばかり西大寺に領地を寄進したいと思う。そし

 て西大寺の永続するようにしたい。是れは時頼自身が寄進す

 るのではなく将軍宗尊親王の御寄進ということにして取り計

 らいたいと思うから、どうか御納め願いたいと申されまし

 た。ところが叡尊の仰せられるには、その無縁ということが

 寺の永続する所以であって、領地等があったりするとかえっ

 て寺は続かないのである。つまりそういうものがあると坊さ

 んの修行の妨げとなる。領地があれば生活が安定してよいよ

 うに思うのは俗人の考えである。伽藍だけは維持できようが

 肝腎なその中に住む僧侶の信心が後退して、かえつて廃す

 るのである。それであるから自分は無縁こそよけれと申すの

 である。領地等の御寄進はまっびら御断りするといって、ど

 うしても受けられなかったのであります。

  すると七月十三日になって、不意に思いがけなく時頼が叡

 尊和上のいる新清涼寺にお見えになった。和上は不思議に思

 われて、今まで幕府から外に出ることはなかなかできない、

 そのために寺に来られないというので、私の方から出かけて

 行ったのに、一体、俄かにこゝに見えたのはどういう訳かと

 尋ねられた。時頼のお答には「恭けなくも不肖の身ながら征

 夷大将軍の執権となっているので、それがため危険が多く外

 出は非常に心配である。日々戦々兢々として薄氷を履む思い

 をしている。夜分はとても外出はできないから私の自宅にお

 越しを願ったのであるが、然しながらつくづく考えてみると

 自分から寺に参詣しないということはまことに礼を失してい

 ると非常に後悔している。況んや自分は名利のためにほ幾度

 か命を捨てるような所に出た、戦争などに出て幾度も禍に遭

 っているが、仏法のために身命を賭して投げ出さんようでは

 まことに辱しいことである。身の危険を慮って法を重じない

 のはまことに済まなかった。そう思うと一刻もがまんできず

 今日出で参ったのである」と申された。叡尊和上もこれには

 非常に随喜されて、種々と法談にふけって、この後は自分か

 ら出掛るからと約束されました。

  それから五日の後、愈々時頼が戒を受けることになった。

 その時の時頼の叡尊和上に対する態度というものは実に恭し

 いもので、授戒の作法が終ってから、しばらく談話があって

 さて退出の時には庭に時頼が降り立って見送ること久しくし

 て門を出て姿が見えなくなってからも、永く見送っていられ

 たのであります。これを見聞した時頼の側にいた随身の人達

 が、かくの如きことは全く前後に例がないことで、実に珍ら

 しいことであると洩したのであります。「此等之儀、漏聞

 之輩、為希代之珍事之由、面々謳謌 云々」と書いてあ

 ります。これ等のことが事細かに顔前に髣髴と浮ぶようにわ

 かっているのは実に有難いことで、その当時の高僧、日蓮、

 道元、親鸞といった方々の逸話にしても、こゝまで細かには

 わかってはいないので皆後人が片言雙語からの類推であった

 り、想像であったりするのに比べて、叡尊和上の伝記はかな

 り明瞭にわかつていることを、吾々末徒は、この上もなくよ

 ろこんでおります。

  利休居士は茶の道の精神を規定されて、和敬清寂であると

 申された由でありますが、その清というのは外面的には器具

 の清潔であること環境の清掃というようなこともあろうがと

 思いますが、やはり内面的には心境の清浄にありましよう。

 名利共に休することに於ても叡尊和上は茶聖利休居士の大先

 輩であったことをお伝えして置きます。(奈良小塔院住職)

 

※昭和401216日発行 歓喜70号(宝山寺) の原稿

として書かれたもの。当時、宝山寺に勤務されていた。

 

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