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法身仏について

             奈良市 小塔院 河村恵雲

 

 密教は法身仏を本尊としていることを前に申しましたから

もうすこし法身について語って置きます。

 仏法とは如何んな法かと尋ね質されたとき、これに一口で

答えることにすれば、それは縁起の法ですと答えて差支はな

かろう。それ程、緑起の法は仏教の中心思想となって居る。

そこで、同じことをむしかえすことになるが、話の足掛りを

其処に置きましよう。

 

        二

 縁起の法を理解するために、たとえばなしにします。

 こゝに一本の楓の木があるとする。晩秋の風情いとおもし

ろく、霜で、まっ紅に映えている。その景趣を写真にうつし

収めよう。

 楓のもとに下り立って、紅葉した一葉をカメラに収めた。

これは、紅葉の風景の一部分であることは間違いないとして

も、多趣多様である自然美のほんの僅かな一場面にすぎな

い。楓の木の全部を撮って見よう。

 そこで、身を退かせて充分の間隔をおいてから、カメラの

シャッターを切った。紅く燃えた葉の集団が、枝や幹と一緒

にうつされているはずである。

 しかし、この美しい楓は、周囲の緑樹があるからであって

みどりの中に紅がのぞいているから輝いて、眼が醒めるよう

にうるわしいのである。

 そうなれば、もっと後退して、緑林も一緒に撮らねばなら

ぬ。そればかりではない。背景が全部総がかりで、一本の楓

を引き立てゝ居るとせねばならぬ。そうなれば松林、緑樹の

問にかいま見る、堂宇、伽藍の白壁や、朱塗りの宝塔も入れ

て自然と人工との調和の中の、一本の楓樹ということになり

ます。

 それ等の数々を取り入れると、カメラをどんどん背後に持

って行かねばなりません。

 全景を撮るには、随分と遠くでカメラを向けねばならぬが

その写された影像、画面は、無数の物が互に寄り合い、関係

し合って、しかも混然と融和し、溶けこんで、互いに引き立

てながら、混然たる一幅の、一画面の風景をなしているので

あります。

 

        三

 密教の法身仏は普通には、理法身と智法身との両方に分け

て説明がしてあり、前者を胎蔵界の仏、菩薩、明王、金剛、

天及天女等として崇敬の対象となって居ります。後者の方は

金剛界の聖衆で、同じく仏乃至諸天としてありまして、いづ

れも絵画としても、聖像としても作られています。

 理法身は、釈尊が菩提樹下でお悟りなされた、縁起の法を

起点として、突きつめ押し進めて行くと、結局は真言宗の胎

蔵マンダラの聖尊群像の理趣になるのであります。それでは

其の径路を説明してくれと言はれる方もありましようが、そ

れは容易ならぬことで、かいつまんで要領よく説明する力量

を、残念ながら私は持ち合せていないので、今は略させても

らいます。

 雪山の中に阿耨達地という池があって、その源が流れ流れ

て、衆流を集めて、遂にガンジスの大河となった。実際にそ

うか、或は空想なのか知らないが、古代印度の人々がそう信

じていたらしい。ちょうどそのように、釈尊悟得の縁起法が

後代、華厳や天台の縁起論にまで展開して、密教の六大縁起

論にもなつた。その六大縁起を図絵によって表現すると、金

胎両部のマンダラになる。まあこの程度にして置きます。

 阿耨達地にも等しい釈尊の金口から放たれた、その聖句を

ば、近代の仏教学者が、科学的良心によって判定して、ほゞ

忠実に伝えていると信じてよい経典の中から、ほんの一つ二

つ、片鱗を、かゝげておきます。

 南伝大蔵経、小部経典、自説経(ウダーナ) の一節

「かくのごとく聞けり。初めて正覚を実現したまえる世尊は

 ある時、ウルヴューラーのほとりなる菩提樹の下にとどま

 りたまえり。その時、世尊は、ひとたび跌坐を組みたるま

 ゝにして、七日の問、解脱のたのしみを享けつつ坐したま

 えり。七日をすぎてのち、世尊はその定より起ち、夜の初

 分にありて、つぎのごとく、順次によく縁起の法を観じた

 まえり。これあるに縁りてこれあり、これ生ずるによりて

 これ生ず…‥…・」 (増谷文雄著書より)

またこの経の結びの韻文には

「まこと熱意をこめて思惟する聖者に

 もろもろの存在の明らかとなれる時

 かれの疑惑はことごとく消えさった

 縁起の法を知れるがゆえである」

 縁起観はものごとの真の相(すがた)、まことの存在を、

ありのまゝに、そのまゝに知る方法であります。真実在は、

一方的な立場からのみ見たのでは一部分に過ぎないし、偏つ

て見たら、ゆがんで見える。共に実存とは言えまい。そのも

の自体になり切って、全体的につかみとる。直接に把握する

方法でなければならぬ、それが縁起観であります。対象とな

るものは世界と人生をひっくるめた現実の存在であります。

 そうすると、あの晩秋の風景の、全景をカメラに収め容れ

た場合のように、そこには、唯一無二の絶対的な実在という

ようなものは無くて(自我に摘要すると無我ということにな

る)、すべては、相依って、相関係して、縁り合って存在す

る。つまり相対的存在だということになる。相対的存在とは

存在とは云っても、実は非在ではないか、空ではないか、即

ち諸法無我であります。

 しかし空ではあっても、あの風景全体としては現に、まぎ

れもなく美しい自然があるではないか、しかし在っても、個

々の木々や土石の相依相関を外にして在るのでもない。個々

の物が在る、在り方よりは、調子が一段高い在り方で在る。

高次元である。即ち妙有であります。それは、たゞ存在とも

云えず、非存在とも云えず、有無を起えての中道に、妙有と

いう在り方で在る。

 天台宗では、空・仮・中の三諦ということを云いますが、

釈尊が直接に三諦円融というようなことは言はれなかったか

も知れませぬが、相縁って起る立場で観ずれば、このように

自からその理が備わって居ります。

一即一切、事々無碍縁起というような、復雑で華やかな、

華厳哲学も、皆「これ有るによりて彼あり」という一句の中

に円らかに具備して居ります。

一切仏教の義理が、釈尊の源泉から流れ出た一例としてこ

れだけ入れて置きます。

 また南伝大蔵経、相応部経典、因縁法の一節を引用します

「比丘たちよ、縁起というのはどのようなことであろうか。

 たとえば、生があるから老死があるという。このことは、

 わたしがこの世に出ようと出まいと、きまったことであ

 る。法として定まり、確立していることである。その内容

 は相依性である。それをわたしは悟った。悟って、いま、

 なんじらに教え示し、説明して、『なんじらも見よ』とい

 うのである」 (増谷著書より)

 この経の中の「このことは、わたしがこの世に出ようと出

まいと、きまったことである。」という一句は、これまた、

法身常住という信仰の源となって、たどりたどれば、真言密

教の仏身観ともなります。宇宙法界を身量とし、法界そのも

のが、活きた霊的な、自覚的な、人格的生命の仏陀、聖体で

あるということになるのであります。

 以上の見方からの仏身は、主として理法身というべきであ

りましょう。

         四

 次に智法身に関する方面を申しあげます。

 法の縁起を知るためには、ものごとを円らかに、偏よらず

に照し観ねばなりませんから、こちらの観るものゝ用心とし

ては、我見、偏見、先入見等の、主観の恣意を拾てゝ、白紙

のように、自己を空無にしなければなりません。同じく最古

の層に属する南伝のパーリ語聖典、『ダンマ・パダ』 (法句

経) には仏陀が、

「戦争で百万の人びとに打ち勝つよりも、一人の己に勝つ者

 こそ、最上の戦勝者である。」

と仰せられるように、この事は難中の難事であります。己に

勝つことは己を捨てることであり、己を捨てる事は自己に死

する事であります。自己の敗北であります。

 実は、このことを言いたいために、私が初めに、あの写真

撮影の例話をしたのでありました。カメラを持って、宇宙の

無限の極限にまで後退して写しとれば、宇宙が一眼に見える

ことでしょう。

 退くことが厭な人は、超越にしたらよい。明治の文豪で文

明批評家でもある高山樗牛は、「吾人はすべからく現代を超

越せざるべからず」の句を残した。その句が、清見鴻なる樗

牛の墓石に、親友によって刻された。

 弘法大師は「即身成仏義」の中に、智法身に相当する成仏

の偈を説明されるとき、『高峯観三昧』(高い山の頂きから

下界を一眼に見下す三昧)だとお書きになって居ります。

 西田幾多郎博士は「見るものなくして見る」無の意識の野

に立脚して、「絶対無の自覚的限定」としての哲学体系を樹

立された。

 槻の秋の風情なら、カメラの後退で事が足るが、われわれ

が今、血のにじむ生々しい人生問題に直面して、岐路に哭き

途方にくれているのである。この時、どう振舞うべきか。如

かず、己を殺して大いに後退し、禅家の所謂「回光反照の退

歩」を学び、身を翻して転身の一路を進むがよい。大死一番

して死に切ったものには、幸いだの悲しいだのいうものはな

い。それはまことに非情ではあろう、峻儼ではあろうが、百

尺竿頭一歩を進めたら、必ず落死するにきまっている。が、

しかし、先聖はみな、死中に活を求めて大活現成の活路を歩

まれた。今日の若い坊さん達が、道の成り難いことに煩悶し

て、その出路になやんで居られるのも、実は、この経験が足

らないからであります。

 釈尊が菩薩にてあらせられた時代の、出家学道の六年の苦

行というものは、つまりは、このことを示して居られるので

あります。

 西欧の著名な仏教学者が、釈尊の出家を、ドイツ語に翻訳

するときに「偉大なる放棄」とされた。偉大なる放棄に依れ

ばこそ偉大なる法、縁起が観ぜられて、明星東天に燦ときら

めくとき、正覚の暁を迎えあそばされた。

「偉大なる放棄」、カメラの後退、この一事を疎外して決し

て道に入らないことを思惟していると、フト古い記憶がよみ

がえった。

 

        五

 

 それは私の、四十年も昔の記憶であります。一灯園の西田

天香先生が鹿谷に居られた時代のことです。その頃、人生経

験にせよ、信仰にせよ、ほんとにお粗末で、嘴の黄色であっ

た私が天香師の門下の末席に居た。

 或日の鹿谷の夜話である。天香さんが、南禅寺の老師(恐

らく毒湛老師のことか) の提唱に接せられた時の話であっ

た。

 老師の提唱は、禅句や偈文を読み上げ、二三べん反誦され

るだけ、別に説明もされねば、感話もない、たゞそれだけで

あります。パラパラと紙をめくっては偈文を反復三べんほど

またパラパラとめくって偈文を、禅句を読まれる。

 提唱が終っての帰途である。隣の尼寺の尼僧が一緒であっ

た。老尼僧が「天香さん、今日の提唱は特に良かつたと思い

ませんか」と話しかける。「エーまことに良かつたが、貴方

は何処が一番良いと感じなされたか」と聞くと「『二十余年

甞て苦辛す、君が為に幾度か降る蒼竜の窟』あの偈が一番よ

いと思いました」と云われる。私も(天香)実は感銘したの

です。老師はこの偈文を読みながら声涙となつた。

 『二十余年甞て苦辛す、君が(無上菩提)ために幾度か降

 (くだ)る蒼竜の窟(命がけの喪身失命の恐ろしい処)』

誦し去って老顔にポロポロと涙された。老師はとても苦労さ

れたのですよ。尼僧も苦労して居られる、とても人には語れ

るものではない。私も苦労した。苦労した者同志だけに、以

心伝心通じあうものですなあ……」

 ほの暗い灯火のもとで、淡々として語られた天香師がなつ

かしまれる。掛け値なしの無一物裡の修行であった。今でも

この世のものとも思われず、尊く、心も言葉も及ばれぬ回想

となって居ります。

        六

 偉大なる放棄は必ず、われらの個性を練磨して智恵の光を

放たしめる。

 この方面から拝まれる仏身が、金剛界の仏達で、『ついで

たる諸尊みなビルシヤナ仏身に同じ』(菩提心論)で、本に

皈せば金剛界マンダラ一印会の、大ビルシヤナ如来、即ち大

日如来にましまし、智法身に相当いたします。ついで(次

で)というのは、順席正しく、第一重の金剛界畔から第二

重、第三重と次第に席を区別して居らせられるということで、

中央からは遠近があるが、近くに座っていられる仏、菩薩

も、順次に遠くに座って居られる、諸金剛や、明王や、天尊

にいたるまで、本を正せば、中央に鎮座ましますマカビルシ

ヤナ如来(大日如来)と、すこしも変らない、同全であると

いうこと。位に高下も距てもない、不動明王も、十一面観世

菩薩も、歓喜天尊も、皆な同一なる法身仏マカビルシヤナに

相違ないということであります。

 

※昭和43年一月号「歓喜77号」への原稿

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