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   法身仏について(二)

              奈良市 小塔院 河村恵雲

 

 真言密教とは、仏陀の悟りの境涯を説明する最勝の教え

であります。理の世界と智の世界と智の世界とに一応分け

ており、そして、その二つの世界は実は一つである。−二

つであつて二つでないと深く解説され、教えられておりま

す尊い教義であります。

 真言密教の特色に鼻茶羅(マンダラ)と云うことがあり

ます。マンダラと云うのは、我々の心すなわち仏であり、

身体も亦仏であると云うことを、形の上に示し現わしたも

のであります。それ故、マンダラとは、真言密教の尊い教

えを、形で示した独特の理論であり、深い哲学を形に示し

たものであります。言葉の表面の意味は壇ということだと

も言うし、もつと精神的な意味の本質とか心髄とかいう意

味もあるということであります。

 そのマンダラが二つに分れていて、一つが胎蔵界マンダ

ラで、理マンダラであります。肉体は理によつて存在して

いるから理マンダラになります。他の一つは金剛界マンダ

ラで智マンダラであります。精神は智で、身体に対すれば

心のマンダラになります。

 この二つのものは実は一つであるというふうに説明して

金胎不二とか両部不二とかいう仏教語を使うのでありま

す。

 歓喜天尊が、隻身であらせられるのも、その基(もと)

はこの理趣に拠るので、女天は理に似つかわしく、男天は

智にふさわしい、抱擁不二とか、一如とかいう気持であり

ます。

 理の世界を理法界と名づけ、智の世界を智法界と申しま

す。

 理法界と云うのは、この世界は理法の通りに存在して居

て、理法をはずれては、何一つとして存在せず、活動もせ

ず、この世は理法の移行している世界だから、理法界であ

るのです。いつ頃からそうなつたという、始めもなければ

終りもなく、誰れが造ったというようなものでもない。か

の造物主というようなものは仏教にはない。不生不滅のた

ゞ在るがま1の世界が、法として白から然るのであつて、

自然即法爾の世界、自然界とでもいうより他にいいようも

ありません。

 人間は、その理法の一つ一つをまず対象的に見出し、そ

の経験を積み重ねて、それをまた整理し、科学という知識

の世界の集積をして、それを人生に利用せしめて、今日の

ような立派な科学文明を築き上げているものであります。

 勿論、立派と申しても、いたづらに科学兵器を造ること

にのみ精根をつくし、戦争ばかりしているようでは、その

文明が立派であるのかどうかなどと、考えるまでもなく、

智識の方向を誤っております事で、それは一にかゝつて、

我々人間の知識を指導する宗教的叡智に期待せられねばな

らぬところでありましよう。

 この人問の理性を、いよいよ延長し、ますます磨き、ど

こどこまでも突き進めて、理智の世界を開拓することを、

理想とし念願しているのは、本来の仏教の正しい歩み方で

その正統を継ぐものは、清純な密教と云われる、弘法大師

の故高の密教のことであります。この教えが一番正しいの

です。

 たゞ、今日の科学は、一歩誤まれば狂人に刃物の観があ

ります。仏教は中途半ばなところで腰を下ろして俗悪に変

じたり、勝手気まゝな独善や、独断をゆるさぬところにあ

ります。徹底明断を要求するところにあります。真言密教

はその代表であります。

 仏教の長所は、最後まで我々の真実の理智主義を離れず

して進み得る点にあるので、学術を認客し、哲学を包含し

て、世界に比類のない理智主義、文化主義、人間主義の現

顕にあるのであります。

 そもそも仏陀という名称は、その意味は覚者でありま

す。覚れる着であります。宇宙一切の理法に於て然らざる

ことのない、一切知なる者という理想が、こめられている

名で、実際にそんなことが在り、またそんな人が有ったの

かと問う前に、仏陀ということの理念が、そういうもので

あることを銘記していたゞき、留意していたゞく必要を切

に思われます。

 このような理法の世界を理法の世界なりと、はっきり把

握し覚知する智の世界は、理の世界または自然界に対し、

これに応じ、これに独立した 「精神の世界」であります

から、それは個性的なものであり、人格的な特色がありま

す。智は個性の中心であり、常に特色ある文化の原動力、

ヒューマニズム (人文的人間主義)であります。

 独立した智の世界といつても、決して理を離れては活動

し得るものではない、智は理に働きかける主人公でありま

す。故に、智の属性には自由がありましよう、時間を離れ

ては考えることは出来ないー即ち時間という理からは逃れ

ることは出来ないが、それでも過去遠々のもとを考え、未

来永々のことも考えることが出来る。空間の理からはみ出

て、−即ち空間を離れて考えることは出来ないけれど、し

かも、はるかに他の太陽系のことでも、悠遠なる天の川・

宇宙の外にまで、考えを及ばすことが出来る。因果律の理

を超えて、仏の世界(空の場) に、直入もする。因果を超

え離れては存在は出来ないが、それでいて、因果を超越

し、業の繋縛(けいばく)を逃れて、涅槃・解脱を追及す

ることも出来るのである。このように理と智とは切つても

切れない、微妙な関係があるのです。

 これが密教の不二、二つあつて而も二つでなく一つであ

ること、金胎不二一体の世界であります。

 智の世界を開拓するには、智性をくらます邪魔物を排除

しなければなりません。渇愛とまで釈尊が名づけられた妄

情や執着を排して、智性を清め練磨して、個性としての人

格を高め陶冶(とうや)するのであります。

 このへんが、今日の学術科学の方法と違うところで、泥

棒しながらでも無線通信の学問は出来るし、人殺しをする

為めにでも、原子科学の理を研究することは、少しも差支

えない。これで見ると、今日の科学なぞは、仏陀の智恵に

比べると、実に大きな開きがあり、科学者は科学智識の限

界を充分自覚し、わきまえて頂かねばなりますまい。

 仏教に於ては、我執我愛に執らわれた小人格を無我の大

人格に向つて拡大し、段々に智の世界を開拓することにな

ります。大ざつばに別けても五十二段、細別するともつと

数多く修養を重ねないことには、智者とは云えないことに

なつて居ります。

 智を練磨するといつても、一般に我々の精神生活は、理

の世界を拾てゝは、智の世界は進歩することが出来ないよ

うに出来でいるのであります。その仕組、その組み立ては

我々の智を鏡として、理をその中に映像して写し取るので

あります。ここは大切なところで、心に秘蔵していたゞき

たい。

 植物の理を写した人は植物学者という智者であるし、人

生の理を写したらば人生観となり、宇宙の理を写せば宇宙

観となるのであります。

 「物を我に於て見出すのが学術である」と或る学者は云

っている。その通りです。仏教は、その出発点に於ては、

学術、科学と同じ行路を行くのであります。

 人間が本来備はつている理性にしたがつて、下から上に

向つて、未熟から完全にと自覚的に昇りつめる。その最高

段階を想像して下さい。理は宇宙を究め、智は宇宙大の大

人格となつたとき、その究極位に「理智不二の大覚位」が

あります。

 理智主義をとことんまで押し進め、その極限に達するや

驚くべき展開があります。その展開というのは外でもな

い、無限の理、無限の智は、実は理智を「超える」ことに

なるからです。超理智とは、言はば、過程的には理智の否

定になり、結果的には蘇って霊性になります。

 それからもう一つ、超理智となることの理由は、智が理

を完全に、智みずからの内に包み込んで仕舞うことは、理

に於ては、単なる理以上の何者かゞ加はつて来ます。包む

ものは包まれるものより一層上位のものであり、見るもの

は見られるものの主(あるじ) であります。

 理を法という言葉にかえ、智は人格と通ずるから人とい

う言葉にかえて、人法不二とします。人が法を覚知して、

人法不二となつたと云っても、覚知されたものとしての客

と、覚知する主人公とは同一には並べられない、威厳あ

る何物かゞ主人公には備はつて居ります。その何物かとは

「神秘」であります。

 人法冥合して「神秘の霊覚体」となります。驚くべき展

開といつたのは、そのことであります。

 宇宙大の理とは、無限の理のことでありますが、理も無

限となると、理以上の理で、超理であります。その超理を

「ア字本不生不可得」とするのであります。

 智は照すものの知るものです。.主観者が智であります。

だから智は自己と同じものです。

 ところが、その真実の自己には直接には遂にお目にか1

れないものです。

 何故なら、これが自己であると知ったとき、自己を見た

と思うが、それは知られた自己、見られた自己で、ほんと

の自己は見るもの自身、知るものそのものでなければなり

ません。そこで、自己を知ったと思うものこそ自己だと、

もう一遍、奥なる自己を反省して見る。と、その自己も知

られたものに過ぎず、遂に其の主観者にはお目にかかれま

せん。

 しかし、知られた自己は真の自己ではないと反省し、自

覚して、知られた自己を空ずる働き、(空空・大空・畢竟

空と無限につづく)そのものが厳に存在する以上、その反

省、自覚の作用を通して、無限の背後に、厳然と「見るも

のなくして見る」真の主観者を証(あかし)しているので

あります。

 こゝに無限智とか、宇宙大の人格者とか云つたのは、無

限の背後で照らすものの見る眼そのものを言つているので

あります。

 その眼をば、言葉も及ばず、つかみ取ることも出来ぬ

が、疑うにも疑うことの出来ぬ存在者として、「バン」字

言説不可待とするのであります。(「ウン」字で象徴する

こともある)

 不可得の智で不可得の理を見るとは、理智主義が、その

内部から解消されて、一次元上の神秘主義に昇華されたこ

とになります。

 神秘の霊光が燦(さん)として法界の頂きに輝くのであ

ります。この大覚体は、霊格体であります。理智の大覚を

より高い次元の生命で包んでいるから、霊光が放射される

のであります。それを法身大日如来と仰ぐのであります。

 「大日経」には大日如来は一切生類の生命の本源である

として、「ア」字第一命と云つてあり、「金剛頂経」の方

では、「ウソ」字命息なりと云い現わしてあります。

 弘法大師の「大日経開題」の中に「曼荼の性仏は円円の

又の円、大我の真言は本有の又の本なり」という、荘重な

文章がありますが、その意味は、円というのは、宇宙法界

のことであります。初めの「円」は理の世界の円でありま

す。次の「円」は智の世界であります。冒頭に申しており

ます曼荼の風光です。ついでの如く、胎蔵界マンダラと金

剛界マンダラであります。「又の円」とは両方の円がぴつ

たりと合同することであります。

 初歩の幾何学では中心の異つた二つの円は絶対に合同し

ないと教えた。ところが、進んだ今日の幾何学では、合

同させることが出来ると云っているようです。先づ二つの

中心点を定める、両方の中心点から直線を無限にのばす。

(これはたしか半直線と名づける)一回転すると無限大の

円が出来ましよう。二つの無限大の円は中心が異つてはい

るが、無限大の円であることに於ては一つであります。即

ち合同しているのであります。

 次元が違ってくると、不可能も可能になつて来て、少し

も不思議でなくなります。これは真密教から云えば、自明

な真理です。

 理の世界である自然界も、横に拡がつて、無限でありま

す。智の世界である個性界も、竪に無限の高さをもつてい

ます。二つの無限が交はつて一緒に関係すると、平面より

高次元の立体の球が出来上り、上下十方にひろがつて、法

界を覆う。それが「又の円」というものでありましよう。

同時にそれが大我であるでありましよう。

 大我の「大」は無限を意味する。「大我」は無限者であ

ります。

 限りないものは、これこれのものであると、限りを定め

ることが出来ない。限りを定めない以上、人間には、見る

ことも取ることも出来ない。つまり認識することが出来な

い。認識出来ないから虚無で、からっぽかと云うと、断じ

てそうではない。これなくしては、一切の存在、世界も人

生も在り得ない。現に世界も人生も、夢ならずして現(う

つつ) にあるではないか。一切存在の基盤として、無限

者(仏さま)を認めないわけにはゆかないではありません

か。

 この無限者は一切存在の基盤だから、法界体性と云われ

大日経によると、法界体性は六大(地・水・火・夙・空・

識) であると説明してあり、大日如来が法界体性三昧とい

う禅定に入り、三昧に住して説法していらせられるのであ

ります。即ち無限界の消息を有限な言葉に言よせて述べて

いられるのであります。また、この大我すなわち無限者は

一切の存在するもの (存在するものはみな因縁によつて生

起している)、すなはち生じたるものの以前のもの、以前

にあって因縁生起を成り立たせている「場所」 になつてい

るもの。一切のものを限りはするが、決して限られること

のないもの。本来(経験に先んずる先験的)のもので、今

はじめて、新たに出来ているものでありませんから、本不

生不可得という意味を象徴する「ア」の一字真言で呼んで

先に申した六大のかわりに、簡単に指し示す、名としてあ

るのであります。

 そこで「大我の真言」と申されたわけであります。一切

の存存をして存存たらしめるものであるから、実在中の真

実在としなければなりません。

 そこでまた、「本有の又の本」であります。また最初の

句「曼荼の性仏」は、人間が本来、本性の理として備えて

いる、金剛界、胎蔵界のマンダラの仏達の徳性ということ

で、普通仏教でいう仏性のことであります。(以上は私の

説明して来たことが、憶側や、独断でないことを証明して

いたゞくために、大師の文をお借りして解説しました)

 

 仏の境涯というものは、人間の能力では窺い知ることが

出来ないのである。あたりまえの認識では道は断たれてい

る。たゞ一つ道が開いて居るのであります。それは「向う

様のほうから開かれる」−如来の加持力によつて、信んじ

て識るのであります。

 信は、人間の能力ではない。密教の大信心の様相は、先

づ一番最初に、法身仏が法界体性三昧に住して居らせられ

る。これが先ず、先行します。この三昧は一体速疾力三昧

とも云うときがあり、仏が人間としばらくも離れてはいて

下さらない。その三昧力が感応して、人間のかたくなな心

をとかして、太陽の温熱が植物の種子をあたためて自然に

芽をふき出すように、仏の三昧に響応同感即ち入我入する

ようになる。それが信ずる心である。だから人間の方で

は、何故にこんなことが信ぜられるのかわからぬ、不思議

なことよと驚嘆するばかりであります。

 そうでなかつたら有限である私共に、どうしてあの無限

老の存在がうかがわれましようか?

 私共が生存している世界は、環境としての自然界も、内

面に自覚される精神も、何一つとして法身仏の生命からは

み出ているものはありません。出ることはあり得ないので

す。そして私自身は、何も知らずにこの世に生れて出た…

……その世界が、地獄のような苦るしいところであつたと

して、餓鬼のようなところであつたとしても、文句の言え

ないところです。ところが、その世界は、如来大慈大悲の

胎内にあたゝかくおさめ護られていた。即ち、胎蔵界であ

ったとは、何んという不可思議にして、狂喜に価する事実

でありましようか。

 仏教ではこの事実を、神の恩寵というような思想には受

取りません。この受け取り方の相違点を仏教の特質として

、よくよく聞いていただかねばならないのであります。

一仏成道される時、諸天も人間も一切衆生は勿論、山川

草木にいたるまで悉く成道して、同じ悟りの霊光につゝま

れる道理があるのであります。そこに尊貴広大な仏法の法

があるのであります。仏陀の成道とは、実に、驚天動地の

一大事件であります。大日如来が色究畢天に於て正覚を成

ぜられた時をもつて、それ以来、この世が荘厳なる、密厳

国土と化したのであります。正覚の智態の光りで、一時に

暗が光と成るのであります。

 この世はそのまま、法爾、法然として、仏と衆生、神と

人との和合調和の世界、マンダラ法界であります。何故に

法繭、法然なのか、大日如来の成道の成とは、疏に日く

「法爾法然の成にして、因縁所生の成にあらず」でありま

す。

 生駒山は、法身ビルシャナ如来が、和光同塵の迹を此の

処に垂れさせられ、変化身を現じて歓喜天尊として、尊位

を下して人間に近づき、親しみくだされる、神仏和合、人

天和楽の法界道場であります。

 私達は、日日に、神威霊験を.限のあたり拝し、報恩謝徳

の実のり(即ち、(お蔭)を夜々に収めさせていただいて

いることを感謝し、心から歓びたいとおもいます。

             金剛殿にて 合 掌

 

※昭和4341日発行宝山寺「歓喜78号」への

恵雲和尚の執筆原稿

 

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