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       祈祷の門

                  小塔院  河村恵雲

              (一)

 ガンヂス河の清流にのみ、蓮華が咲くということでありま

す。その流域に仏教が発祥いたしました。仏教は蓮華の宗教

と云うにふさわしい。

 菩提樹下に正覚を成ぜられた、仏陀釈尊の眼に映じた衆生

界は、あたかも、蓮他の如くであったということが伝えられ

て居ります。

 或る蓮は水面高く頭を揚げて、あでやかに開花して居りま

す。或るものは、漸く水面を切って頭を僅にほころばせて居

ります。また或るものは、水中に固く莟みを沈ませて居りま

す。

 開いた花が仏である。水を切って莟みを割っているのが菩

薩である。そして、水中に固く沈んでいるのは衆生でありま

す。

 衆生と仏との差は本質的なものではありません。ただ、開

いているのか閉ざしているのか、開敷(かいふ)蓮華か未敷

(みふ)蓮華かの差であって、華であることに於いては、価

値は全く同一であります。平等は蓮華の宗教である仏教の中

心思想であります。

         (二)

  仏教学者の中には、悟りの宗教と祈りの宗教とに二大別

する方があります。それによると、仏教は悟りの宗教であっ

て祈りの宗教ではない。祈りの宗教の最も典型的なのはキリ

スト教であるという。仏教は覚悟の宗教で祈祷なき宗教であ

るというのであります。

 祈祷というものが成り立つには、キリスト教でいうように

天地創造といったような全能者が先ずあって、創られたる者

としての人間が、全能者即ち神に、恩恵を請い、救済を祈る

という形になっていなければなりません。キリスト教ほど明

瞭でなくても、ほぼ類似の型を取っているのが、仏教以外の

総てであると言って差支えありません。

 これに反し覚悟の宗教の型態は、趣きが大変に違います。

そこには、先覚者としての聖者があります。すなわち仏であ

ります。一世の尊敬すべき人、言わば人類の師匠であります

から、大恩教主釈迦世尊などと云って居ります。覚りの師で

あって、全能者、神でない。教導の先達であって救済主では

ありません。たとい救済主である場合があっても、それは覚

悟による救済であります。

 こういう型の宗教では祈祷なく、たとえ有っても二次的な

もので、本質をなさぬ、主でなく副になります。

 普通仏教(これを顕教という)はこの類型を忠実に守って

居りますから、徹底した宗派ほど祈祷というものがありませ

ん。浄土真宗などは最もよい例であります。禅宗も祈らぬ宗

派でありましょう。他の宗派でも観法が中心であったり、念

仏が中心であったりします。顕教としては、この傾向こそ伝

統に忠実だと言えましょう。

 それは何故か、仏とは覚れる衆生、衆生とは迷える仏に過

ぎない。開敷した蓮華か、未だ開かざる蓮華かの差であると

いう思想が、根底をなすからでありましよう。

          (三)

 ここに真言密教という普通仏教とは型破りの仏教がありま

す。この宗派には、先の学者の分類は少し無理があります。

密教は祈祷を門として覚悟に終っているのであります。祈り

ある覚りの宗教であります。

 それにもかかわらず顕教も密教も同じく仏教であるのは、

同一仏教原理に拠っているからであります。

 仏とは開いた蓮の花であり、衆生とは苦みの蓮の花であり

ます。これを観るのに、顕教のように、仏とは覚れる衆生で

あり、衆生は未完成の仏と、これを縦にばかり見ないで、い

や、それもまたまごう方なく真理であるが、しばらく伏せて

置いて、こんどは蓮華を横に並べて観察するのであります。

縦からも横からも観て、真実相を探ろうというのです。

 そこに見られる光景は、此の蓮と他の蓮とは咲いたものと

莟みのものとの差はあっても全く同じ蓮華に相違ないから共

通点があります。同類であり、同種であります。そうすると

一茎の蓮華を執り揚げて、この種の総べての蓮華を代表する

ことも出来ます。無数の蓮華は一茎の華の中に、融け込んで

皆はいっているとも見えます。融けこんだと言っても、他の

華は他の華だから、無碍に渉入していると云った方がよいか

も知れません。一の中に他の一切が入り込んでいる、即一切

ということになります。その反対の一切即一ということも云

えます。

 更に精細に観察します。仏も衆生も同一蓮華で同一性だか

ら、本体から見ても同一である、衆生と仏の本体は六大であ

ります。六大は無碍(さはりない)にして常に瑜伽(ゆきき

する)して居ります。体あれば相(すがた)あり。体が無碍

する以上、当然相の方もゆききして、彼れと是れと離れない

で入り交って居ります。相あり形態あるところ活動作用があ

ります。作用と作用とは互に感応道交して加持の働がありま

す。

 それは、荘大華麗な六大縁起の法界観であります。こんな

ことを言っても、観念の遊戯をして、幻想をえがいているの

ではありません。仏陀大覚者の悟境であります。悟境という

のは実存の有様であります。如実知見の対象でありますから

宇宙の実相であります。

 釈尊の眼に映じた蓮他の観を本にして、その冥想を深くさ

ぐりて、布衍(ふえん)して行けば、弘法大師の六大縁起の

世界観、人生観の如きものが出来てくるのであります。

 密教の加持祈祷というものは、この世界観、人生観に基づ

いて生活するところにあります。基礎のないところに建物は

築かれません。

 

          (四)

 私は最近、ある新聞の投書欄の一文を読んで、思わず、そ

のおかしさに声を揚げたが、再び真面目に考え直して、また

ほほ笑んだことでありました。それはある婦人が、その夫に

感謝しているという告白でありました。

 細いことは忘れたが、その御婦人が妊娠された。ところが

不思議なことに、夫の方が妊婦に代って悪阻(つわり)の方

を引き受けてくれたという事実があったと、ユーモラスに語

って居られた記事であります。

 個体は各別に出来ていて互に窓なきものとも一応言えま

す。だから他人をつねっても、自分は直接には痛くもかゆく

もない。夫のお腹がすいても、その妻が空腹であることは、

直接にはない。

 ところがどうでしよう、この御夫婦はよほど仲が良いので

しょう。妻のつわりを夫が病んだと云って居られるのであり

ます。

 私はこの記事をあながちに嘘だとは思いません。

 六大縁起が脳裡にあるからであります。

 

          (五)

 仏心が衆生心に通ずる道理がある。衆生心が仏心に通ずる

道理がある。心ばかりではない、身も通ずる。仏身が衆生身

に通じ、衆生身が仏身に通ずるのであります。

『仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と日い、衆生の心水、

よく仏日を感ずるを持と日う』のであります。『加持とは如

来の大悲と衆生の信心とを表す』如来の真実心、大慈悲心が

衆生の心を溶かし、身根に徹する。骨まで愛するという言葉

もあるではありませんか。それが衆生に感応して信仰とな

る。催されて信ずるのであります。反対に、衆生の赤誠丹心

が仏天を貫くという立場も真言宗では認めるのであります。

 顕教では、仏の方の祈りは認めるようですが、衆生の祈り

は肯定しない風があります。

 心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らん。

という立場に立つからであります。また更にもっと突き進め

て、衆生には真実心なぞ起し得ないという反省となれば

 祈るとも験(しるし)なきこそ験なれ、いのる心に誠なけ

 れば

これ等はまことに高い、また深い心境だとは思いますが、こ

れが顕教の祈りに対する態度の限界になっているようであり

ます。

 

           (六)

 近郷近在にまで知れ渡っていた、ある孝行な息子がありま

した。それが藩主の耳に入って、遂に御褒美までもらった孝

行着であります。伝え聞いたさる人が、そんな息子なら一度

あって見たいものと、はるばる尋ねて来ました。 行ってみ

ると、息子も野良から丁度帰って来たところに出くわしまし

た。

 すると、歳老いた母親が奥から出て来た。「おかあ今帰っ

たよ」と言って、息子が縁側に腰を下すと、母親がいそいそ

とすゝぎ水を持って来て、脚を洗ってやった。

 そんな姿を、日本一の親孝行者に見たのでありました。い

つか聞いた話であります。

 普通の親孝行者というのは、親に大切にかしづき、親を大

切にし、一人前の男となって独立、独歩、後顧のうれいがな

いようにするのが何よりであります。母親に足を洗わせて平

気でいるとは、もっての外だとも言えます。

 密教は古来から果上の法門(悟り切った上での所談)だと

言って来ました。天台や花厳のような最高の法門が、実は密

教の出発点になっている法門であると伝えて居ります。

 だから密教の祈祷の心根は、並々ならぬものがある。低き

は高きなり。あの孝行な息子が老母に足を洗はせた心境と何

処か一脈通じたものがあります。

 

         (七)

 祈祷の精神というか、祈るものの心根は一応了解した、が

果して、祈って、祈りがかなえられるものか、祈祷に反応し

て、必ず霊験があるものでしようか。

 それに答えるには先ず、前提として、真言密教に帰依し、

三密瑜伽の法を信奉し、マンダラの諸尊を信仰し、ひいては

真言のアジャリ(アジャリは師匠、弘法大師のような方)に

尊信の心があるかないか。つまり仏法僧三宝帰依の念ありや

なしやということが重大なことになって居ります。

「大日経」の出発は「真言門に入って心に住する品」から初

まって居ります。正法に帰依するということは如何に重大事

かわかりましよう。この真言の教は神通乗とも名づけられ普

通なら三祇百劫という永い時間修行して、諸善万行を積み重

ねた上で至り得る境地に、凡夫のまゝ一念に超えて、無上最

高の仏果に直入する教であります。

 どうして直入するのか、たゞ帰依の一念で飛び超えるので

あります。だが、このことはいずれ後で申し上げます。

 因果の道理は歴然としていて、神の所作でも仏の所作でも

ない。どうすることも出来ない理法であります。

 衆生の苦悩は各自の業力によります。誰に責任があるわけ

でもない、自業自得であります。神も仏も如何ともいたし難

いのであります。ただ衆生自らが発心自覚して、善根功徳を

積み、六波羅密を修して業力の転換をするより外に、運命

開拓の道がないのであります。峻厳無比なのが法界でありま

す。この世は法の通りに在るのです。

 しかし是処に、たった一つの血路があります。理外の理が

あります。秘密瑜伽の神通乗であります。

 衆生が機縁が熟して、法爾とし瑜伽に住するとき(つまり

密教を信仰すること)衆生の業の生命の中に、如来が無量劫

にわたって修行されて積み重ね給うた願行功徳が、無碍渉入

(さわりなく入り込む)して、如来の功徳力によって衆生無

始の業が消滅してしまう。そこに如来の功徳力ばかりが働い

て、因清きが故に果もまた清い、その結果が霊験といわれる

ものであります。

 これは普通の因果律では割り切れない、不思議なことだ。

専門の言葉で訶(カ)字因業不可得と云って、超因果の因果

であって、これに依って霊験をいたゞくのであります。

 まことに不思議にして神秘なるが故に密教と言つたのであ

ります。貴いかな秘密仏乗。

 以上が加持祈祷の一応の道理でありますが、ここで早合点

してもらってはなりません。祈祷が即実言密教ではありませ

ん。祈祷を門として覚悟に至る教が真言密教なのでありま

す。ほんとの面目は其処にあるのであります。

 

※昭和43111日「歓喜80号」への恵雲和尚寄稿文

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