護命味噌

法論味噌は、護命味噌とも飛鳥味噌(明日香味噌)ともいい、護命(ごみょう)僧正が初めて作って
法論の間に粥に添えて出したと伝えられています。
建長6年(1254)に成った『古今著聞集』に、南都
の僧の持参した土産として書かれているので、相当早い時代からあったものと思われ、元興寺の土産か
ら、
広く南都の土産品となっていたようです。飛鳥味噌(明日香味噌)といわれるのは、飛鳥寺(元興
寺の別名)の産物だからとか飛鳥川のほとりだからその名があるといわれています。

法論味噌に関して詳しい資料はありませんが、下記の資料が参考になります。

◆出典・参考資料

『元興寺の歴史』 岩城隆利著 吉川弘文館 (188.35-56

『奈良市史 通史2、3 (奈良市 19941988年) (216.5-240-10.210.3

『南都名所記』 繪圖屋庄八(291.65-カイセ)

『南都名産文集 『青須我波良 3号 19715月) (910.5-21

「法論味噌考」 『大和志 』第4巻第10号 193710月) 

 

奈良市内には「飛鳥川」の古地名が残っていたり、京都府と奈良県の境界には、「飛鳥路」の旧村
名が残っています。奈良県内の小あ
ざな字名ともなると、「飛鳥」という言葉が数か所に所在してい
ます。
一体なぜでしょうか?その謎を解く鍵として、『万葉集』の巻六にこんな歌があります。

 

ふる里の 飛鳥はあれど 青丹よし 平城(なら)の飛鳥を 見らくしよしも

大伴坂(おおともさか)ノ上(へ)ノ郎女(いらつめ)(万葉歌人・大伴旅人(たびと)の妹)が、奈
良の元興寺の里を詠んだ有名な歌です。元興寺は、平城遷都の際に飛鳥寺を新都に移した寺院のことで、
「平城(なら)飛鳥の里」ともいわれています。さらに、徳川中期の名所案内記を見ると「飛鳥川」
「飛鳥山」「飛鳥神並神社」「飛鳥井」などの地名や当寺名産のことを記しています。折口信夫は「む
かし住んでいて飛鳥はもちろん良い所だが、奈良の飛鳥も、なかなか愉快な所だ」と解釈しています。
現生駒市内の「飛鳥野」「飛鳥台」なども、各地の「新銀座」のように、当初の発生地名がいつしか移動、
伝播、分布していったのです。

昨日出て 今日持ち参(かえ)る 明日香味噌

とあります。「明日香味噌」は、俗に「護命味噌」「法論(ほろ)味噌」とも言い、いわゆる「奈良漬」の
発達に少なからず寄与していると伝えられています。「平城(なら)飛鳥」は桜、紅葉の名勝として「奈良
十六景」の一つとなったそうです。奈良ホテル付近は、「飛鳥御殿山」「奈良御所」と称し、近くの「御所、
馬場町」に「大飛鳥橋」「小飛鳥橋」の旧名があり、今も「飛鳥小学」の校区があります。これらはすべて、
故郷を懐かしむ奈良の人びとが名付けたのではないかと思われます。

奈良ホテル東方、瑜伽(ゆが)神社境内から大和平野はるかに、「飛鳥古京」を望見する景勝地に「ふる里の
飛鳥は…」の万葉歌碑が建っています。因みに、京都「比叡」の山名を江戸に移したのが「東叡山寛永寺」な
のです。これらのことから、何時の時代でも、人々が「ふる里の山」「ふる里の川」の原風景をこよなく敬愛
したことが理解されます。

                 (池田末則の地理魍魎 (2009.09.10)大人組 Kansai 20099月号より)


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