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河村みゆき

河村みゆき、(19071947)は、若くして結核の病に取り憑かれながらも、荻

原井泉水に学んだ自由律俳句を杖に懸命に生きた、日本女流十傑の一人に数えら

れる女流俳人であった。この頃の雑誌「層雲」に多数の句が残っている。

 彼女の才能をみとめ深い親交のあった同人に、山頭火がおり、山頭火の書き残し

た作品や日記の所々にみゆきが現れている。

山頭火が同人女性に好感を持たれていたことを示す資料が残ってる。村瀬智恵子、

河村みゆき、兼行桂子、原田深雪の名がある。(山頭火と女性の句)

以下は、河村みゆきが山頭火へ送った追悼文である。

「をぢさん−山頭火翁の霊前に−」(『層雲』昭和164月号所収)

場面は前年井師が回避した六十番横峰寺。

 

「をぢさん、山頭火のをぢさん。をぢさんの句が一見とても単純で便利?だったもの

ですから、よく私たちは悪用してゐました。勝手に宗教的意味なんかつけて。

『俳句をそんなことにしちゃいかんよ』と仰有ったのも知りながら。然しそれ程をぢ

さんの句には魅力があったのです。それでこゝの教団内に、層雲を知らない山翁ファ

ンなどと云ふ連中が出来たのでせう。

私がこゝへ来る前に色々と迷ってゐた時、K(※筆者註‥木村無相)さんが『枯山飲む

程の水はありて』を書いてよこして、まさしく枯山ですよ、然し求めればあなたが飲む

程の水はあると思ひます。などゝ云はれたのも記憶に新です。その御本尊さまがこの秋

にはお訪ねしますと御通知下さったのですから、私たちの喜びも一通りではありません

でした。

 Kさんなんか蔵書を売払ったお銭で、之でをぢさんに一杯飲ませるんだ、とまるで久

しく逢はなかった父親でも迎へるやうに楽しんで居りました。十月八日をぢさんのにこ

にこ顔をお迎へしてそれから十三日の朝お立ちになるまで、私たちは随分をぢさんに甘

へましたね。

『わしに翁と云ふ名をつけたのは緑平ぢゃあ、だからわしも緑平老とつけてやったよ』と

仰言って大笑されたり。いゝ御気嫌の時には横になって牧水の歌を口ずさんだり。

 横峰寺へお詣りの時には日が暮れてしまってもお帰へりにならないのでとても心配しま

したが、聞けばお弁当と一緒に持って行ったビールが重くて山の登り口であけてしまった

所、それからは一丁行っては休み、又休みで、たうとう日が暮れたとか、それでも私への

土産と、櫨(はぜ)紅葉の美しい一枝と、途中の茶店から持って来て下さったトマトは忘

れずに持って帰って、病床の私を喜ばせてくださった。なつかしい思ひ出、それがたった

一年の後には計報となって病院へとゞいたのですもの、夢のやうな気がしました。松山と

はすぐ近い所に居ながら、遂に再びお目にかゝる機会もなく、病院から帰って、去年みん

なで一緒に撮った写真を出して、しみぐと眺めたことです。

 あの写真には、十四年十月十一日と書いてありました。一年後のこの日が御命日になら

うとは誰が思ひがけませう。

 山頭火のをぢさん、どうぞあの世でも幸福であって下さいませ」

 

(山頭火の謎 藤岡照房著p254p256

 

小塔院