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河村恵雲様

昭和五〇年

一燈園「光」誌五月号付録

 

光友392

特集・うしろ姿のしぐれてゆくか

−山頭火を思う−

〈木村無相〉

 

※この文章は木村無相氏が、文章更正を依頼して奈良市の小塔院に住む河村恵雲氏に送られてきた原稿である。所々、無相が直筆で更正し書き入れている。出版前のゲラ刷り原稿と思われる。

 

  一つあれば事足る鍋の米をとぐ

  いただいて足りて一人の箸をおく

  月夜あるだけの米をとぐ

  こころすなおに御飯がふいた

  笠にとんぼとまらせてあるく

  つかれた脚へとんぼとまった

  いつまで旅することの爪をきる

  雨ふるふるさとはだしであるく

  おちついて死ねそうな草萌ゆる

                 (山頭火)

 

  うしろ姿のしぐれてゆくか

     − 山頭火を思う −

         木 村 無 相

 一、枯山の句と

 

  枯山飲むほどの水はありて  山頭火

 毎年、草枯れの季節が来ると思い出されるのは、種田山頭火翁のこの「枯山」の句と、今は亡き河村みゆきさんのことであります。

 河村みゆきさんは、かつて『層雲』の俳人で、今となっては層雲のずっと古い俳人の方でも、覚えてはおられないのではなかろうかと思われるほど目だたなかった方で、しかし、今の毎日新聞がまだ「大阪毎日新聞」と言っていた頃、その文芸欄に「日本女流俳人十傑」という記事が載った一時、その中では唯一人の自由律俳人として採り上げられた方でもあるのです。

               ○

 みゆきさんは神奈川県の生まれで、生前『層雲』誌に依って句作されていましたが、その実生活としては、当時まだ新興宗教扱いをされていられた京都の一燈園西田天香さんのもとで托鉢生活をされ、その後、天香さんとも親しかった岡山県の金光教高橋正雄先生の御膝下でも奉仕生活をされた、極く熱心な求道者であられたのであります。御主人の河村恵雲さんも同時代に、みゆきさん同様に一燈園生活をされその後に高橋先生のもとに行かれた求道熱心な方で、そのお二人の結婚は高橋先生が媒酌され、お二人は式の直前までそれぞれの奉仕作業をされて、その作業着のホコリを払われたままの姿で神前で水さかづきで式を挙げられ、その総費用は当時で言えばお酒一升、一円そこそこだったそうで、しかも式後は、すぐにまたそれぞれの作業にかかられたという事であります。そうした仔細を、当時私も入っていた高橋先生の「生の会」誌で知った私は、私自身の生き方について深く考えさされたのでありました。

               ○

 そうした恵雲さんが、高橋先生の卸信仰と人柄を慕われたことは非常なものでありましたが、哲学的な恵雲さんは、その信仰生活に哲学的な裏付がほしくてならず、それを弘法大師の真言宗に求められて真言の名師に会うべく、『私は貴男に、ようついて行きませぬ』という奥さんのみゆきさんを金光に残して遍路となって海を渡り、四国路をめぐりめぐってその師を求め歩かれたのでありました。

 その恵雲さんが四国六十一番の札所香園寺に、天香さんと親交のあった山岡御院家のお許しを得てその行脚の荷をおろされたのは、私が香園寺の三密学園を出て寺に上った翌年の昭和九年の十一月頃であったのであります。

 私と恵雲さんとは、その浅深はあっても同じく一燈園なり高橋先生と縁があり、また共に明治三十七年生まれの三十才でありましたので、そうした重なる因縁から直ぐ親しくなって、おたがいに何かと打ちあけて語り合う仲になったのでありました。

               ○

 そうした或る日に

 「金光のみゆきに何と言ってやっても香園寺には来んと言うてきかんのじゃが、あんた一つ来るように勧めておくれんか」

と恵雲さんに切に頼まれたので、私は、

「見も知らん私が手紙を出しても、みゆきさんが果たして来るか来んか頼りない話だが、ともかくも出してみよう」

と引き受けたのでありますが、その手紙のあらましは、つぎのようなものであったのであります。

 

 「初めてで失礼ですがみゆきさん。

 貴女が天香さん・高橋先生、そして私は作句しないが私もとっている『層雲』に御縁のお方と聞いてとても懐しく思っているのであります。

 今御主人恵雲さんがおられ私もお世前になっているここ香園寺は、信者数三十万、弟子百人、機関紙毎月発行三万部、それに専門学園もある札所中では指折りにお詣りの盛んな所ですが、求道者にとって一番大切な真実な法水の点から言えば或は枯れがれかも知れませんが、それでも貴女も私も好きな山頭火さんの句を借りて言えば、

 枯山飲むほどの水はありて

で、まだまだおたがいが渇を慰して余りあるほどの真実な法水は湧き出ていると私は信じているのであります。

 この際貴女が来て下さるならば、御主人恵雲さんは一層落ちついいて修行が出来ることでありましょうし、私としてもどれほどか心賑やかなことでありますが、みゆきさん、どんなものでしょうか−」

              ○

 思いもかけずみゆきさんはそれから十日も経たずして海を越えて、あれほど来ることを拒んでいた私たちのいる香園寺に来てくれたのでありました。

 初めて会ったみゆきさんは私に

 「妾の大好きな山頭火さんの枯山″の句で、香園寺さんの大体の空気が解るような気がしまして、さすがに頑くなな妾の心も溶かされまして−」

と、その少女のように澄んだ瞳をうるませて挨拶された後、御主人恵雲さんにニッコリとその笑顔を向けられたのでありました。

 こうして香園寺に来られたみゆきさんは、早速香園寺の婦人部に入られましたが、その抜群の人柄が御院家に認められ、又、婦人部の方々にも大変慕われて、入寺後半年も経たずして、三十余人おられた婦人部の主任格に抜擢されたのでありました。

 しかしその後三、四年して、長年の求道生活中いつの間にか侵されていた肺が悪化してとうとう床に就かれて、以来十余年、香園寺の外寮(病室五室)や神奈川県の実家で療養されたあげくに、遂に全快することなくして、まだ四十そこそこの若さでその惜しい生涯を終えられたのであります。

 昭和十四年十月、六年にわたる文通のあげくに、ようやく私が念願の山頭火翁にお会いすることが出来て、思いもかけず七日間も起居を共にさせていただいた所は、香園寺の外寮の河村みゆきさんが療養されていた病室の隣室であったのでありました。

 『大耕』誌の昨年一月号に、澄太先生がお載せ下さいました山頭火翁中心の写真の中に、病むみゆきさんも恵雲さんもその御両親も、私も写っているのであります。

 枯山飲むほどの水はありて

 この一句にこもる人間山頭火翁の生涯とその真実−。

 私はこの冬も又、枯れがれの遠山を見ながら山頭火翁の「枯山の句の心と、生涯を句作と求道とに尽くされた河村みゆきさんのことを、しみじみと独り思わせられているのであります。

 言へば愚痴になる青い萄葡の一粒一粒

これが私が覚えている唯一つの河村みゆきさんの句であります。 

                          (四三、二,一四)゛大耕゛誌

 

  二、山頭火忌近く

 山頭火翁逝いてまる二十八年、今年もまた秋めぐり来て山頭火忌近いことであります。

 大耕舎版『草木塔』の種田山山頭火年譜に、澄太先生はこう書いていられます。

    昭和十五年(五十九才)

    一草庵に在り、句会柿の会生る。

    五月、句集「草木塔」出版さる。

    広島、徳山、小郡、川棚、北九州に旅す。

    十月十日、年後脳溢血にて倒れる。

    夕より柿会あり同人来庵。

    十一月、午前四時(推定)絶命。

 「絶命」の二字に、同じく、独り者で動脈硬化の強い私は、ただ独りで逝かれた山頭火翁の絶命のお姿が偲ばれて、何時ここを読んでも心疼かずにはいられないのであります。

  深夜、ただ独りで逝かれしことか  無

              〇

 私は昭和八年六月、在比五年の暗中模索の比律賓から帰ってまもなく、予定していた求道遍路の旅に出たのでありますが、その旅のどこそこから在比時代から『層雲』誌上でその句と名を知ってあこがれていた山頭火翁にたびたびお便りをし、経本仕立の句集『鉢の子』以後つぎつぎと出た句集を刊行毎に旅先に送っていただいたのでありました。

 そのあこがれの山頭火翁に、ようやくにしてお会い出来たのは、山翁が松山の一草庵で急死された昭和十五年十月の一年前の同じ秋十月のことであったのであります。

 その山頭火翁と、山翁来訪の記念写真を撮ったのは「十月十日、午後脳溢血にて倒る」の丁度一年前の昭和十四年十月十日のことでありまして、毎年山頭火忌が来る毎に私は旅のどこにいても私の旅用の小さなお厨子のお名号の横にその記念写真をおまつりして、その前にコップに一杯お酒を満たしてお供えして来たのでありました。

 山翁は句集「鉢の子』の最後に、

    私は酒が好きであり、水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであった。  今白は酒が好きな程度に於て水も好きである。明日は水が洒よりも好きになるかもしれない。

と書いていられるが、所詮山頭火翁の酒好きは終生のもので、ある時は庵で、ある時は巷で、あるときは旅で、「ままよ一ぱい、また一ぱい」とコップ酒を重ねられたことでありましょう。

              ○

 旅の山頭火翁から、「十月早々にお訪ねします」との御報をいただいたのは、山翁がまだ四国に渡る前の、昭和十四年九月下旬のことでありました。

 多年あこがれの「山翁来たる!」の報に、私はどれほどか驚喜したことですが、その頃はただただ二十才以来の問題の煩悩の救いを求めての流浪時代で、職無く家無く、一時的に今治から四里の道安寺に寄食していた時のことでしたので、そこに山翁をお迎えするわけにもゆかず、私は、私もかつては修行させていただいた四国六十一番の札所の道友、河村恵雲さんの所に相談に走ったのでありました。

 恵雲さんも、その奥さんで大の山頭火好きの『層雲』俳人のみゆきさんも、山翁来訪の報をどんなにか喜んで下さって、山翁と私の食事は恵雲さんの御供養、二人の宿泊所は当時結核で香園寺の外寮(病室五室)で静養されていたみゆきさんの病室の隣りの六帖、そして山翁滞在中の酒代係は無相、そういうことに話が決まって、どうしようかと思っていた私はヤレヤレと大安心したことでありました。

 酒代係の私はすぐさま道安寺に帰って早速あるだけの本を大阪の知友に送ってそれを売ってもらい、山翁が一日一升ずつ飲んでも十日分に余るだけの酒代を用意し、それからの毎日は、「何月何日に来る」という山翁からの便りを、郵便が来る毎に待ちに待ったのでありました。

              ○

   宇 品 乗 船

   ひょいと四国へ晴れきってゐる

 山頭火翁が海を渡って澄太先生御紹介の松山雷蔵の高橋始先生(−洵さん)の所へ行かれたのは十月一日とのことで、それからの数日を松山中心にすごされて、いよいよ念願の四国遍路に発たれたのは、十月六日頃でなかったかと思うのであります。

 松山を発たれた山翁は、六日、七日と今治在の桜井町に泊られて、その翌八日朝、道安寺から桜井郵便局までお迎えにいった私と伊予三芳駅まで歩かれて、そこから汽車で伊予小松まで行き、その昼頃に香園寺外寮に落ちつかれたのでありました。

 その時、「松山の一洵さんは学校の授業の都合で十二日に香園寺に来られ、十二日、十三日と香園寺で講演をされて、十四日に香園寺を発って私と一緒に讃岐路近くまで遍路行をされる」との山翁のお話があったので、一日でも長く山翁と起居を共にしたいと願っていた私は、どんなにか喜んだことでありました。

              〇

 滞在中の山翁は、みゆきさんの気分のよい時はみゆきさんの枕頭で俳談・旅談をいろいろとされたことですが、そのとき山翁が一番喜んで話をされたことは、探しに探していた『層雲』俳人の朱鱗洞さんのお墓が松山近い墓地でようやく見つかったということで、おりからの冷雨の中を、朱鱗洞さんのお墓に詣でられた時のことを、喜びに堪えぬように歯のないお顔をかがやかせてお話し下さったことでした。

 また或る日の午後、みゆきさんの言うがままに私がお酒をみゆきさんの病室まで持ち込んだ時はとても喜ばれて、先ずお酒を一ぱい二はいとコップであふられてから、「さて書こうか」と気の向くままに思い浮かんだ句や語を、色紙.短冊・半折・横額と数々書いて下さったことですが、記憶の悪い私は、私が書いていただいたものすらその半分も覚えておらぬことで、今やっと思い出されるのは次の数句だけであります。

    ほんのり咲いて水にうつり

    へうへうとして水を味ふ

    涸れきった川を渡る

    空へ若竹のなやみなし

    とんぼよどこまでついてくる

    てふてふうらからおもてへひらひら

    この道をたどるほかない草のふかくも

    うれしいこともかなしいことも草しげる

    淡如水

 私が特に書いて下さるようお願いした「南無阿弥陀仏」の名号は、「いや、それは書けない。私にはそれを書く力は無い」と申されて、何とお願いしても遂に書いて下さいませんでした。

 家を持たない、時としては部屋さえも持ち得なかった流浪の私は、折角そうして書いて下さった貴重なものも、乞われるがままに一枚一枚と誰れ彼れに上げてしまって、今はもうその一枚も持っていないのであります。

 今私が持っている山頭火翁直筆のものとしては、お別れした後の十月三十一日、私の身を案じて書いて下さった撫養局消印のお手紙一通だけで、私はそれだけは手放さずに山翁の私への唯一の形見として、大切に大切に持っているのであります。

 その最後となったお手紙にこもる山頭火翁の私の身を真から案じて下されたおこころ、山頭火忌ちかいこの頃、私はまたそのお手紙をとり出してくりかえし拝読しつつ、私の心深く囁きかける山翁のお声を、独りしみじみと聞いていることであります。

              〇

 六泊七日の山頭火翁の滞在中、ずっと私はみゆきさんの隣りの六畳で、あこがれの山頭火翁と起居を共にさせていただいたことでありますが、その間、山翁の行くところには何処にでも、私は着いて行ったのでありました。ある時は本堂に、ある時は護摩堂に、ある時は香園寺の奥之院の白滝不動に、ある時は境内・近郊の散策にと、丁度金魚のうしろに糞がついて離れぬように、私は山翁の行くところ歩くところ、片時も離れぬようについてまわったのでありました。

    お宿いただいてすずめ火ぜい

    香園寺慈母観音像

    南無観世音お手したたる水の一すぢ

    秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり

    白滝不動

    お山しぐるる岩に口づけて飲む

 これらの句は、その間の山翁の句であります。そうしたことの中で、特に私にとって忘れ得ぬことは、四国六十番札所の横峰寺拝登の時のことであります。

 水好きの山頭火翁は、横峰寺拝登の上り下り共に、流れがあれば流れに、湧き水があれば湧き水に口づけられて、さも甘そうに飲まれるのでした。

 また、横峰登山の途中では、たびたび遍路道の雑草を指さしては私に、「これは何という草か知っているか、あれは何という花か知っているか−」と、雑草の試験官のように私に問うのでありますが、『層雲』を読み山頭火翁の句に親しみながらも、句作の志のない私には野の雑草のことよりも、私自身の内面にはびこってやまぬ煩悩の雑草のことで胸が一ぱいで、問われた雑草の名のただ一つさえも答えられぬ私に、「雑草の名一つさえも知らぬ」と、余りにも不出来な我が子に思わず顔をしかめた親父のように不機嫌になった山頭火翁に、私は内心、一層親しみを感じたことでありました。

 

    すなほに咲いて白い花なり

    山のふかくも鐘おのづから鳴るか

    落葉しつくしたる木の実赤く

は、横峰拝登の時の山翁の句であります。

              ○

 

 生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(修証義)

生死の申の雪ふりしきる

百舌鳥啼いて身の捨てどころなし

どうしようもないわたしが歩いてゐる

捨てきれない荷物のおもさまへうしろ

 昭和六年、熊本に落ちつけなかった。またもや旅から旅へ旅しつづけるばかりである。

  自  嘲

うしろすがたのしぐれてゆくか

いつまでも旅することの爪をきる

    大阪道頓堀

    みんなかへる家はあるゆふべのゆきき

 こうした境涯を経て、流浪の何たるかをしたたかに身に沁みて知っている山翁にとっては、その遥かな遥かな後から来る若い私の流浪には、黙って見ていられぬ堪えきれぬものが感じられたのでありましょう。

 夜半、一時二時に、寝入っている私を幾晩となく揺り起しては、

 「流浪はいけない、流浪は止めなさい。流浪はもう私一人で沢山、私をもって最後としたい−」と泣かんばかりに頼むように申され、また、                 「私がこの旅を終えた後、果たして松山に落ちつけるかどうかはほんとうはまだわからないが、貴方の身の落ちつきどころだけば必ず何とかするから、流浪は止めにしなさい。貴方のことは一洵さんにもお願いするつもりだから、貴方からもそのうち一洵さんに手紙を出しなさい−」

とこうも言って、我が子のことのように私の身を案じて下さったことですが、いかにも業の深い私は、山翁がまだ四国をめぐっていて松山に行きつかない先に、お別れした翌月の十一月には早や岐阜県下の恵那山腹の中津川町に、暮れの十二月には静岡県下の大井川畔の金谷町にと流れていたのでありました。

 この道をたどるほかない草のふかくも

とは山翁が書いて下さった旬の一つですが、いかに草ふかくとも私は私の業と願いとにおいて、私は私の道をたどるよりほかないことかと、暗中模索の旅の寝床で独りしみじみ思うたことでありました。

 松山高商の高橋一洵さんから、「予定の如く十二日には香園寺に行き、十二月十三日の講演を済まして後、十四日には貴方のお伴をして遍路に出、讃岐路ぐらいまで行きたいものです」というお便りが山翁にあって、それから聞もなく一洵さんが来られて、いよいよ山頭火翁とのお別れの日が迫ったのでした。

  あすはおわかれの爪をきりつつ、秋

はお別れの前日の十三日の句であり、

  蓼に芒を活けそへておわかれの朝

  朝焼のうつくしさおわかれする

はお別れの当日の十月十四日の朝の句で、山翁はその時、それを書きとめた句帖を見せて下さったのでありました。病むみゆきさんと恵雲さんとその御両親とは病舎の外寮の前で山翁とお別れしたのでありますが、私は、「せめて西条近い加茂川ほとりまで−」とお願いして、山頭火翁・一洵さんの後について、香園寺の山門を出たのでありました。

 途中、遍路道からはずれて西条への田舎道を、道案内の一洵さんが先頭に行き、少しおくれて山頭火翁、そのすぐ後を金魚の糞の私がついて歩いたことですが、素晴らしい秋晴れの田舎道を、山頭火翁は歯のないお口で、

  幾山河越え去りゆかば寂しさのはてなん国ぞ今日も旅ゆく

と牧水の歌を、ゆっくりゆっくりと朗誦しつつゆっくりゆっくりと歩いてゆかれるのでありました。やがて加茂川のほとりまで来て、いよいよ私は山頭火翁とお別れしたのでありますが、お別れの時に見せて下さった句帖には、

    加 茂 川

  山のけはしさ流れくる水のれいらう

  はっきり見えて水底の秋

とありました。山頭火翁は、出発前に私に求められたのでお着せした一燈園の黒いヒッパリを尻からげされたお姿で、

秋晴るる、右左さっさとおわかれする

の句の如くに、未練がましくいついつまでもお見送りしている私をただの一度も振りかえらずに、先きを行かれる一洵さんの後を追うて、遠く遠く姿を消してしまわれたのでありました。

 山翁よ、今日までは生かされて来し 無 (四三、一〇、一)゛大耕゛誌

 

     三、コ ロ リ 往 生 (一)

 昭和四十四年十月十一日−。

 今日は、松山の一草庵で五十九年の生涯を閉じられた山頭火翁の三十回忌であります。 ふとした怪我で入院中の私は、今朝、ベッドの傍の物入れの上の、私の旅用の小さなお厨子の御名号の横に、言葉どおりに一期一会となった山頭火翁との記念写真をまつって、例年の如くお酒をコップに一ぱい満たしてお供えして、山翁なつかしく、久びさに『観音経』を声小さく読誦したのでありました。

 それは、酒好きで、

 松はみな枝垂れて南無観世音

の山翁を偲ぶには、もっともふさわしいことに思えたからでありました。

松山の一草庵には、澄太先生をはじめ山翁有縁の方々が、さぞ思い思いにお詣りのことでありましょう。

               〇

 私には山翁の死が思われる時、必ず『コロリ往生』という言葉が思い浮かばれてならないのであります。それは、山頭火翁の最後が、山翁多年の念願のコロリ往生であられたばかりでなく、この私の多年の念願でもあるからでもありましょう。

 山翁は、澄太先生御編『愚を守る』の「私を語る」の中で、つぎのように言っていられます。

 私は我が儘な二つの念願を抱いている。生きている間は出来るだけ感情を偽らずに生き たい。これが第一の念願である。言いかえれば、好きなものを好きといい、嫌いなもの を嫌いといいたい。やりたいことをやって、したくない事をしないようになりたいので ある。

 そして第二の念願は、死ぬる時は端的に死にたい。俗にいう『コロリ往生』を遂げるこ とである。

 私は私白身が幸福であるか不幸であるかを知らないけれど、私の我が儘な二つの念願が だんだん実現に近づきつつあることを感ぜずにはいられない。放てば手に満つ。私は私 の手をばとこう。

ここに幸福な不幸人の一句がある。

  このみちや

  いくたりゆきし

  われはけふゆく

 これは、山翁がいつごろ書かれたものかは知らないが、山翁は正に此の二つの念顧を満たして死なれたのであります。私はこれを思う時、前記の

 深夜、ただ独りで逝かれしことか

を、今日の山頭火忌に際しては、

  ねがひ満たしてコロリと往かれしか

と書き替えずにはおれないのであります。

              ○

澄大先生は、『愚を守る』の「はじめに」の中で、山翁にこう語りかけていられます。

 十年前、既にころり往生を念願していた山頭火が、ついにころりと往生したのだ。「ころりと横になる今日が終っている」は放哉の句であるが、あんたは、ころりと横になって一生を終えていたのだ。而も最後の一夜の枕頭で、俳句の会を開いて貰い、永遠の眠りを、酔後の眠りと間違えられていたというような死方は、どう考えても山頭火らしい往生ではなかったか。ころり往生即大往生だ。

 今日の山頭火忌に私は、この澄大先生のお言葉を改めて拝読して、心ひそかに私もまた山頭火翁のコロリ往生を、善哉々々と言わずにはおれないのであります。

 いかにも山翁は、人界の事実としては、誰一人看取りする者も無く深夜にただ独りで逝かれしことでありますが、法界の真実としては、無数の仏菩薩に看取られての大往生であったのでありますまいか−。

今朝拝誦した【観音経』に、

 観世音菩薩は是の如き自在神力在りて娑婆世界に遊びたもう。

とありますが、人界における酒翁山頭火の数奇と見ゆる五十九年の生涯は、正に法界における句菩薩山頭火の裟婆世界自在遊歩であられたのではありますまいか−。

              ○

 コロリ往生について山翁はまた、『愚を守る』の「述懐」中において、つぎのようにも言っていられるのであります。

  私の念願は二つ。ただ二つある。

  ほんとうの自分の句を作りあげることがその一つ。

  そして他の一つは、ころり往生である。病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介  をかけないで、めでたい死を遂げたいものである。−私は心臓麻痺か脳溢血で無造作  に往生すると信じている。

山翁の念願の一つ、「ほんとうの自分の句を作りあげること」については、大耕舎版『草木塔』の序文で森信三先生が、つぎのように言って下さっているのであります。

 「山頭火」というと、わたくしにはすぐ芭蕉が浮んでくる。そしてそれ以外の俳人は浮んで来ないのである……。

 わたくしが山頭火をもって芭蕉以後の俳人であり、芭蕉の精神を現代に生きたただ一人 の詩人だというとき、人びとの中には、彼れの句が定型でない点を指摘して、かれこれ とあげつらう人も少なくないことであろう。だがわたくしから言えば、むしろ山頭火は 非定型の道を歩んだればこそ、よく芭蕉に迫ることができたのであり、ある意味では芭 蕉を超え得たとも言えると思う。

私は、澄太先生から大耕舎版の『草木塔』を御恵贈いただいて此の序文を拝読した時に、

 「ああ、ここに真に山頭火を知る人あり!」

と言い知れぬ感激を覚えたのでありました。

  むしろ山頭火は非定型の道を歩んだればこそ、よく芭蕉に迫ることができたのであり、 ある意味では芭蕉を奄え得たとも冨えるのだと思う。

の森先生のお言葉は、私自身が山翁について甚だ漠然と感じていて、それが何かはっきりしなかったものを、実にはっきりとして下さったお言葉で、まことにまことに感に堪えないありがたきありがたきお言葉であります。

 さらに、岩波書店刊行の『広辞苑』御編纂の新村出先生は、澄太先生御著の『俳人山頭火の生涯』のはじめの「山頭火を愛読して」の中で、                 ……かくの如き迂路を経由して、『大耕』によって山頭火を深く認識するようになりま したが、それらの告白のあと、痛恨に堪えないのは、拙著の『広辞苑』に山頭火のこと を忘却したことです。今後の増補版には、ぜひ加えねばならないと注意しますが、最近 の明治書院版の『俳諧大辞典』には、約一欄それが出ているのはうれしいことでした。

と言って下さっておりますが、昨年刊行の増補版『広辞苑』には、正に「種田山頭火」の項目が加えられていて、どんなにか嬉しくありがたいことであります。

 

  四、コ ロ リ 往 生 (ニ

 

 なお新村出先生は、本年刊行の澄太先生御編『山頭火行乞記−あの山越えて』の序文において、つぎのように言って下さっているのであります。

  うしろ姿のしぐれてゆくか

 私はこの句が非常にすきだ。同月二十七日に太宰府参拝のとき「天満宮の印象としては、樟の老樹ぐらいだろう。さんざん雨に濡れて参拝して帰宿した』とあって、太宰府の句が二句書いてある。                                  右近の橋の実のしぐるるや

  大樟も私も犬もしぐれつつ

 樟樹が大好きな私は、この二句にも異常に心がひかれた。芭蕉にも宗祇にも、なさそうな詩境だと思った。

と、山翁の詩境を、「芭蕉にも宗祇にも、なさそうな」と讃えていて下さっていますが、これを拝読した時、山翁の、「ほんとうの自分の句を作りあげることである」との第一の念願が、単なる念願に終っていないことの証明を得た感がして、まことに喜びに堪えないことでありました。

              ○

 さて、「述懐」中での、

  そして他の一つはころり往生である。病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介を  かけないで、めでたい死を遂げたいものである。−私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に  往生すると信じている。

との山翁第二の念願については、その念願の如くに、「病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介をかけないで」その「信じている」の如くに、「脳溢血で無造作に往生」されたのでありました。

 ところで、こうした山頭火翁念頗のコロリ往生は、今はまったく血縁無く、家無く産無く、長年の動脈硬化症のゆえに、先年は軽い中風状態で入院し、昨年は左眼底出血、本年は右眼底出血して、その都度医師にその血管の破れ易さを注意されている私の、切に願うて止まぬところなのでああります。

 もっとも、その遺体の始末については、京大白菊会の会員として学生の研究解剖用に寄附の手続きを済ましてあるものの、その死そのものは、果して山翁の如くにコロリ往生できるものかどうかは、甚だあてにできぬことであります。

 『草木塔』の「孤寒」の中に、

    行旅病死者

  霜しろくころりと死んでゐる

の山翁の句がありますが、私も流浪中、「行旅病者」のタテマエで或る市の社会福祉関係の病院で、一冬高血圧の養生をさせていただいたことがありますが、その間に、日をおいて自殺未遂のお方三人ほどと同室し、また行旅病者の方お二人とベッドを並べたことでありましたが、それらのホンモノの行旅病者の方々は、たった一ト晩か二タ晩でコロリと死なれたことでありました。

 それらの方々と同室で、しかもベッドを並べていた私にとっては、その最後はまったくヒトゴトとは思えぬのでありました。

 冬の路頭で、霜しろくコロリと死なれるのもその人の業運であり、同じ行旅病者でも、一夜でも病院に収容されて死なれるのもその人の業運であり、山翁の如くに、「最後の一夜の枕頭で、俳句の会を開いて貴い、永遠の眠りを、酔後の眠りと聞違えられていたというような死に方」をされるのもその人の業運でありますまいか。

 「死の縁、無量」と聞くことでありますが、その人その人の業がちがう如くに、その死に方にも無量のちがいがあることでありましょう。私がいかに山翁の如くにコロリ往生を願えばとて、私は私の業運のままに生き死にするほかは無いことでありましょう

 人一倍業人の私は、願の如く脳溢血でコロリ往生どころか、中風になって、長く病んで苦しんで、あれこれと有緑の方々に御厄介をおかけして、のたうちまわって死ぬことかも知れませぬ。

願は願として、その実際に当っては、どうなることか知れたものではありませぬ。

 さて、業人無相は、これからどう生き、どう死ぬべきでありましょうか−。

               ○

 ここにふっと思い出されるのは、二十才以来お慕いして止まぬ良ェさまのお言葉であります。

『草木塔』の「柿の葉」の中に、

    国 上 山

 青葉わけゆく良寛さまも行かしたろ

という山翁の句がありますが、その良寛さまのお言葉に、

 災難に連ふ時節には災難に逢ふがよく侯。

 死ぬる時節にほ死ぬがよく候。

 是れはこれ災難をのがるる妙法にて候。

というお言葉があります。

 これは、越後の大地震の時に、良寛さまが与板の山田杜皐に宛てたお手紙の一節ということでありますが、こん日にして私にはこの良寛さまのお言葉は、「中風になる時節には中風になるがよく侯。コロリ往生の時節にはコロリ往生するがよく侯。是れはこれ生死に処する妙法にて侯」といただかれることでまことにありがたいお言葉であります。

 また、良寛さまの詩に、つぎのような詩のあることを教えられたのであります。

    閑古古己地

  古を問へば 古すでに過ぐ

  今を思へば 今もまた然り。

  展転して 蹤跡なし

  誰れか愚 また誰れか賢なる。

  縁に随って 時日を消し

  己れを保って 終焉を待つ。

  瓢として 我れこの地にきたる

  首を回らせば 二十年。

 首を廻らせば私も京都だけでなく、この世に生を受けてから既に六十五年−−。これからの生を、死を、「縁に随って時日を消し、おのれを保って終焉を待つ」べきでありましょうか−。

 この良寛さまの「随縁」のお言葉に、しみじみとお念仏をいただかずにはおれぬ今日であります。

              ○

  ああ、山頭火翁逝いて三十年。

 山翁は行く。

 山翁は行く。

 山翁ほ行く−。

 

鳥の果てしなき虚空を行くが如くに、山翁は、今なお永遠の句作行をつづけられていられることでありましょう。

 昭和十四年十月に山頭火翁と、言葉通り一期一会して以来満三十年。今年の山頭火忌は、京都の東本願寺近い救急病院の一室で迎えさせていただいていることであります。

 山頭火翁の歯の無いお顔をなつかしみつつ、病室の窓遠くゆく秋の雲をしみじみと見送っている今日の私であります。

 

  けふは山頭火忌の白い雲のゆくゑ  無  (四五、一〇、一一)“大耕”誌

 

「念仏信抄」より(一燈園出版部石川律さん 選)

 

無 相 よ

 

無相よ

本音を はけ

本音を はけ

本音を はけ

じぶん自身の

本音を はけ

 

無相よ

本音を はいて

本音を はいて

本音を はいて

じぶん自身の

本音を 生きろ−

 

   生きるんだ

 

生きるんだ

生きるんだ

煩悩の一生を

 

生きるんだ

生きるんだ

無常の一生を

 

煩悩 無常が

人間の一生

ナムアミダブツと

生きるんだ−

 

 まん中に

 

おねんぶつは

つつむ

天地をつつむ

 

おねんぶつは

つつむ

一切合財(いっさいがっさい)

わたしを

まん中に 

天地をつつむ

 

   しらぬは

 

しらぬが

ほとけと

いうけれど

 

しらぬは

ぼんぷで

ありましょう

 

摂取心光常照護″

 

おやさま

いつも

まもりづめ

 

   千里いっても

 

千里いっても

大地の上

万里いっても

大地の上

 

千里いっても

大悲の中

万里いっても

大悲の中

 

ナンマンダブツ

ナンマンダブツ

 

   ありがたき

 

生は偶然

死は必然″

ホンによいこと

ききました

 

偶然の生

ありがたき

必然の死

ありがたき

 

生死を容れて

ナムアミダブツ

ナムアミダブツ

ありがたき−

 

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