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懺悔(おわび)

 

正月の修正会、或いは修二会は悔過(けか)の法要です。そして師走には仏名会、大晦日に

は除夜の鐘。これらはすべて懺悔の祈りであり、おわびの行であります。中でも、だれもが親

しんでいるのは百八つの数を打つ除夜の鐘でありましょう。それは煩悩という人間苦を越えた、

実に自由な人生への願いをこめて聞こえてきているのです。

 私自身、ある年静けさの中で、あの音に向い、ひとり、ある感慨に身をつつまれていく自分

があったのを覚えています。それは慨悔(おわび)ということではなかったでしょうか。

 誰に対してなのであるか。とにかく、悔いてわびることが、私の中で、ひそかに、行われて

いたような気がするのです。そして、そのとき、ふだんのように、焦燥感というものによって

ではなく、今や、信頼感のようなものの上からも、自分が生きているということを検知できて

いたようにも思えるのです。そこでは、もはや、自由という予感とともに、尊厳な自分という

ことも、自認していたように思います。

 このようなことは、落ち着いて、自分をみつめる機会をもつたときなどに、しばしば、みら

れるところからすると、たぶん、わたしたちは、ゆめうつつのうちに、いつも、この懺悔とい

うことがなされているのではないでしょうか。これは、おそらく、生きていく私自身の前途か

ら、常に、なんらかの働きかけがあるからでしょう。しかしそれが、日頃の自分にとっては、

そのつど、新しい体験でもあることから、ほとんど、反省するひまもなく、対応をあやまり、

自分というものの成立するについては、せっかく、お世話になりながら、その半分だけしか受

けとることができず、結局は、焦燥感のほうの増長を許してしまうのです。そしてこのように、

自分で、自分の秩序を乱していく姿をみることにもなってしまうのでしょう。

 しかし、そのようななかに、悔いわびる自分もみえるということは、実に、めでたいかぎり

です。

懺悔の心は、光のむこうがわに生きている、永遠の大いなる悲しみと無縁ではないはずです。

 年のかわるたびに、懺悔者(ぼさつ)のさらなる旅立ちを祝福させていただき、次に、お経

の中に説かれてある、人格の自覚ということにおける自他呼応の原則(ヨガ)三ヵ条をはなむ

けといたしましょう。いつか、応用なさることがあるかも知れませんから。

一、この身このままでおまかせする。

一、お詫びは、申させておいていただく

一、他のために祈らせていただく。

 

小塔院

住職  河村 俊英(かわむらしゅんえい)

 

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