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総本山 西大寺

真言律宗(しんごんりっしゅう)について 
 
 日本の仏教の宗派の1つである律宗の一派であり、かつ真言宗の宗義に基づい

て大小乗の戒律を修学する真言宗の一派。嘉禎年間(12351238)に叡尊がおこ

した。真言宗の教義を旨とし、四分律・梵網戒(ぼんもうかい)を併せて修学する宗派

として、鎌倉時代、睿尊(えいそん)を祖として興る。1895年(明治28年)真言宗か

ら独立し、真言宗系の宗派として、総本山西大寺、大本山宝山寺の二寺が真言宗

十八本山会に加入している。

 総本山西大寺は奈良市西大寺芝町1-1-
にあり、真言密教の宗義に基づいて

金剛乗の戒律を修学する宗派であるとともに、南都六宗1つである律宗精神の再

興の意義も併せて有している。

真言律宗の成り立ち

 天平神護元(765)年に称徳天皇の勅願によって開創され、三十一町歩に及ぶ

境内に百十余宇の堂塔伽藍が建ち並び、偉容を誇った西大寺は平安時代に再三の

災害に遭い衰退したが、鎌倉時代、叡尊上人(興正菩薩)より密・律兼修の道場と

して復興され、以後、叡尊上人の法燈を連綿と受けついで「真言律」と称した。

 明治以後、一時、真言宗の下に合併されたが、宗派独立運動をおこし、明治28

(1895)真言律宗として独立認可を受け、独自の教団として現在に至っている。

真言律宗の開祖叡尊について

建仁元年(1201年)〜正応3年(1290年)のひとで諡号(しごう)は興正菩薩。

鎌倉中期、戒律を復興し、非人救済等の社会救済事業に尽力し、ひろく尊崇を受

けた。興正菩薩は鎌倉時代の南都の四律匠の一人で、当時おろそかになってい

た戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行動的に興した人である。

 続く戦乱の時代に多くの宗教者が世に出た。東大寺の復興をとげた重源(ちょ

うげん)(1121〜1206)、浄土宗を開いた法然(1133〜1212)、臨済宗の栄

西(1141〜1215)、浄土真宗の親鸞(1173〜1262)、京都高山寺の明恵

(1173〜1232)、曹洞宗の道元(1200〜1253)、真言律宗 の叡尊(えいそ

ん)(1201〜1290)、日蓮宗の日蓮(1222〜1282)、時宗の一遍(1236〜

1289)、南都の碩学(せきがく)・凝然(ぎょうねん)(1240〜1321)と多くの宗

祖が輩出した。これらの僧侶の足跡を訪ね、思索の深まりをたどり、活動を支えた

人々の心を知る時、仏教が歴史の中で背負ってきた 役割を量ることができる。

 たとえば、根来寺・頼瑜(1226〜1304)と同じ頃に活躍した叡尊の活動を

自伝『感身学正記』にみると、叡尊は奈良西大寺を拠点にしていた。当時の西大寺は

荒廃をきわめており、叡尊は貴賤(きせん)男女と信心の心を合わせて大寺・西大寺

の復興と仏教の興隆を誓った。近畿を中心に布教し、文永6(1269)年、建治3

(1277)年、弘安5(1282)年の三度紀州を訪れ、約三千人に仏弟子となる

菩薩戒を授けた。岩出市・遍照寺も信心に参加した寺である。叡尊は90年の生涯に

約十万余人を授戒。師が発願して造像した多くの尊像の内部にはこれらの人々が署

名 した文書が、経典などとともにぎっしりと納められ、今日に伝えられている。

             (引用 総本山根来寺主任研究員 中川委紀子のweb上の文)

叡尊の弟子信空
 
信空(しんくう、寛喜3年(1231年)- 正和5126日(1316220日)

は、鎌倉時代後期の真言律宗の僧侶。字は慈道。大和国の人。12歳の時、自宅に招

かれた叡尊の講話を聴いてその門人となり、西大寺で出家する。師の般若寺再興を助

け、その住持の代行となる。後に師の大御輪寺再興に従って上首を務めた。正応3

1290年)、死の床にあった師の叡尊の遺言によって西大寺の寺主を継承した。後宇

多天皇・談天門院五辻忠子に具足戒を授けた他、徳治元年(1306年)讃岐国鷲峰山に

おいて、梵網布薩を行うなど各地で布教を行う。また兄弟子である極楽寺の忍性とと

もに各地の国分寺を再興して西大寺・極楽寺の末寺とした。

没後、後宇多天皇と談天門院の子である後醍醐天皇によって慈真和尚の諡号が贈られ

た。
金剛仏子叡尊感身学正記

金剛仏子叡尊感身学正記』(こんごうぶつしえいそんかんしんがくしょうき)は、

鎌倉時代に真言律宗を開いた僧侶・叡尊の自伝である。感身学正記と略する場合も

ある。
 
弘安8年(1285年)、85歳を迎えて先が短いと考えた叡尊は、自己の信仰・事業に

ついて振り返って後事を門人に託すために同年1114日に執筆を開始して翌年2

28日に完成され、翌3月までに校正を終えた。
 
出生から醍醐寺における出家と真言密教の修行、仏教界全体の堕落から、覚盛らと

ともに東大寺で自誓授戒を行ったこと、忍性ら弟子との出会いや西大寺を再興して戒

律復興運動や非人・癩病患者救済活動などを行った経緯等を記している。
 
叡尊自身が保持していた諸資料を基にして書かれていること、内容が詳細明晰であ

ること、当時の他の歴史・仏教史料と比べても大きな相違がないことから、鎌倉時代

における仏教史料として高く評価されている。
 
長谷川誠編『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記』が没後700年の

1990年(平成2年)に西大寺より刊行。

細川涼一訳注『感身学正記 西大寺叡尊の自伝』(全2巻)が、平凡社東洋文庫で1

巻のみ1999年(平成11年)に刊行。

 

神風と神国思想
 
元との関係が悪化し元寇となることは幕府の想定内であった。ゆえに幕府及び

朝廷は予め何度も怨敵調伏の加持祈祷を行わせていた。

その中でもとりわけ暴風雨で元軍が撤退した日に石清水八幡宮で祈祷していた叡

尊の発言力は大きく、それは叡尊の祈祷に応じて八幡大菩薩が吹き起こした神風

とされた。さらに、そのとき「蒙古は犬の子孫、日本は神の末裔、負けることが

あろうか」と祈って神国思想?を高揚させたことになっている。

真言律宗

 

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